特設サイト第8回 教育の再開なくして復興はない
【宮城県女川町で】廃墟の町役場
宮城県石巻市から女川町までの17キロをつなぐJR石巻線は大震災で壊滅。訪れた8月25日、石巻駅前からタクシーで入った女川町は瓦礫の町と化していました。巨大津波は多くの町民が逃げ込んだ海抜16メートルの町立病院駐車場の車をも押し流し、高さ18.8メートルにも達したと言われています。港周辺の商業施設や公共施設はほとんどが水没。鉄筋3階建て町役場庁舎も濁流に襲われました。名城大学法商学部を1964年(昭和39年)に卒業した教育長の遠藤定治さん(71)はその時、屋上で、職員や避難してきた町民ら約60人とともに、流されていく家や建物をぼう然と見つめるしかありませんでした。天井が破れた役場庁舎の1階フロアには、泥まみれの車、机、事務機器、パソコンのディスプレイ、書類、職員の名札が散乱。入口には役場であったことの証なのでしょうか、真新しい国旗と町旗が半旗のようになびいていました。
教育長兼災害対策副本部長として
震災後、女川町役場は高台にある女川第二小学校の校舎を間借りして業務を続けました。4か月を経た7月19日からは、同小敷地内に建てたプレハブ2階建ての仮設庁舎で業務をしています。2階の教育委員会事務局に災害対策本部副本部長でもある遠藤教育長を訪ねました。
遠藤さんは名城大学を卒業後、出身の女川町や石巻市での教員生活を経て1999年から女川町教育長を務めています。遠藤さんが教員の道を歩もうと決めたのは、名城大学時代の教職課程部(2003年に教職センターに改組)で受けた指導や教育実習での体験でした。教育実習は名古屋市千種区の今池中学校で行いましたが、そのとき指導してもらった社会科の先生の高い指導技術、教師としての姿勢は、遠藤さんの教師人生の羅針盤となったそうです。
遠藤さんは36年の教員人生のうち13年は教育行政に携わりました。石巻市教育委員会では社会教育課長として、市民の生涯学習も推進。女川町教育長に就任してからの12年間は、子供たち一人ひとりが社会的に自立できることを究極の目標とする教育をめざしてきました。
震災と教育委員会
人口約1万人の女川町では、行政組織をスリム化するため、副町長、収入役というポストがありません。震災発生後は、遠藤さんは災害対策副本部長として町長、消防団長と3人で第二小学校の同じ部屋に泊まり込んできました。自宅も津波で流されて全壊しましたが、幸い家族は山に逃げて無事でした。
教育委員会は中立性を維持するため、市町村長(首長)の権限による一般行政から独立した合議制の行政委員会として運営されます。通常、首長が議会の同意を得て任命する教育長も含めた5人の教育委員で構成。教育長は教育行政の専門家として事務局を統括するとともに、住民から選ばれた4人の教育委員たちの意見を取りまとめる役割を担います。
町の規模が小さい女川町では、一般行政と教育委員会が意思疎通を密にしながら連携する総合行政を進めてきました。震災では頼もしい存在だった教育委員の1人が犠牲になりました。町内の水産加工会社専務の佐藤充さん(55)です。
佐藤さんは中国人の技能実習生20人を高台に避難させた後、家族を捜しに戻り波にさらわれました。佐藤さん以外に残った石巻専修大学の教員、商工業の保護者、元校長も4月末までは避難所生活や県外への避難を余儀なくされました。教育委員会は開催できず、遠藤さんが教育長として専決決裁することで教育行政を動かしてきました。
学校の再開
宮城県内の被災地では多くの小中学校が4月下旬から再開されましたが、女川町では4月12日から再開しました。「教育が立ち止まっていては町の復興はおぼつかない」という遠藤さんの決断があったからです。
町内には小学校3校、中学校2校がありますが、高台にある学校は真っ先に避難施設、仮設住宅候補地となったため学校は5校が2校にまとめられました。小学校は第二小学校に、中学校は第一中学校に集約されて授業が行われています。
遠藤さんが学校再開に強くこだわったのは、「子どもたちが大変厳しい状況にあるからこそ、学校で生活リズムを回復させてやらなければ」と考えたからです。友達と再会し、先生に寄り添える「学校での絆」こそが、子供たちの心の支えになるはずだからです。
学校を再開するためには難題が山積していました。瓦礫の山の中を歩かなくても済むスクールバスの運行、学校給食が完全復活するまでの簡易給食の実施、教科書の確保などはとりわけ大きな課題でした。それでも課題は一つ一つクリアされていきました。災害対策副本部長として学校現場にも一般行政にも関わる遠藤さんの強味もありました。
子供の生活環境の激変
震災後の子供たちの生活では大きな課題が生じていました。まず、子供たちの生活環境の激変です。子供たちは7~8割が避難所暮らしになり、県内外に2次避難するとか仮設住宅を変わるケースも出てきました。地域のコミュニケーションが薄れていき、地域の教育力が崩れていくことが心配されました。
保護者の失業、離職と絡んで、就学援助対象者も激増しました。財政的には国と町の負担になりますが、簡単には解決する問題ではありません。さらに遠藤さんが心を痛めていたのは学力低下の問題でした。子供たちが学習できる環境といえば学校に来ている時だけという状態になってしまったからです。
「女川向学館」
女川町には11の学習塾がありましたが、10の学習塾が津波で流されました。塾経営者たちの収入の道も途絶えました。一方では学校から帰れば狭い避難所か仮設住宅暮らしで、子供たちには落ち着いて学習する環境がなくなっていました。合同授業が行われている第二小学校や第一中学校では5月の連休明けから、夜9時ごろまで、教室を自習用に開放していました。しかし、施設管理のため、先生たちが宿直に入る必要があり、マンパワー的にも限界が来ていました。
塾の経営者たちが、夜の学校を使って、子供たちの学習をサポートしてくれたら。遠藤さんの構想は、被災した子供たちの勉強を支援しようというNPO法人「カタリバ」(東京都杉並区)の仲立ちで、学校も協力する新たな学習塾として実現しました。「女川向学館」です。
女川向学館は、避難所として使われている第一小学校の空き教室を利用して8月上旬から本格的にスタートしました。仮設住宅からの送迎バスも確保され、夕方から夜にかけて週6回の授業が始まりました。中学生は英語と数学、小学生は算数と国語を中心の授業。先生は塾講師たちです。全国から学習サポーターとして学生ボランティアたちも次々に加わってくれました。
向学館の夜間授業には、町内の小中学生は590人のうち3分の1以上が参加しています。収入の途絶えていた塾講師への報酬など運営費は月額300万円程度で、カタリバなどが企業や学校法人から寄せてもらった寄付金で賄われています。東京に本社を持つ大手中古車販売会社が、子供たちの送迎用にワンボックスカー3台、ミニバン2台の計5台を贈呈するなど、女川向学館へのサポーターは広がっています。
運動会を実現させた母校との絆
6月12日、女川第二小学校の校庭で、第一小、第二小、第四小の3校合同運動会が開かれました。子供たちにも親たちにとっても待ちに待った運動会でした。「運動会の歌」の元気な歌声、徒競争で一等になった子供の誇らしそうな笑顔。親子1000人が一緒に踊ったフォークダンス「マイムマイム」は圧巻でした。PTA役員のブログには「町は何もなくなってしまったけど、女川には元気な子供たちがたくさんいます。大人の我々も子供に負けちゃいけないですね」と書き込まれていました。
実は運動会の実現には大きな難題がありました。子供たち全員の弁当が用意できるかどうかでした。第二小の児童たちは9割が自宅を失い、避難先や仮設住宅での生活を強いられています。弁当の食材を整える店も流されてコンビニ2店がやっと開店したばかりです。親を失った子供たちもいる中で、校庭で全ての親子が一緒にお昼の弁当を広げることは不可能でした。運動会開催の話が持ち上がったとき、保護者たちからは「お昼をどうするんですか」という声が上がりました。
校友会義援金を弁当代に
教育長として遠藤さんも頭を抱えていました。そこへ、思わぬプレゼントが飛び込んできました。名城大学校友会東北支部長の野神修さん(1962年理工学部卒)から、「校友会支援金」「全国校友会会員有志の義援金」が届けられたのです。最初は、「自分より大変な暮らしをしている被災者がたくさんいるはず」と受け取るのをためらった遠藤さんでしたが、ある考えがひらめきました。「運動会の弁当代に使ったらどうだろう」。義援金を使えば子供たちと先生たち計430人が一緒に食べる弁当が用意できます。そう考えると、母校校友会からの義援金は涙が出るほど、ありがたいプレゼントだったのです。
町の復興に元気を与えた3校合同運動会はこうして開催が決まりました。保護者用までは弁当が用意できないため、昼までには終わるプログラムが組まれました。ところが、プログラム通りには進みませんでした。運動会当日の6月11日(土曜日)が、無情にも雨に見舞われたのです。この日の運動会は順延となりました。しかし、注文してあった弁当は生ものです。午前中、行われた授業後、各教室で児童たちは先生と一緒に食べました。みんなで食べる久しぶりの御馳走でした。運動会は翌日に順延となりましたが、子供たちにも先生たちにも、この日の弁当は一生の思い出になる弁当だったに違いありません。
運動会は晴天となった12日(日曜日)に振りかえられました。午前中だけの開催で、弁当はありませんでしたが、子供たちや親たちにとっても、久しぶりの楽しいひとときになりました。「来年こそは親子一緒に弁当が広げられる運動会になれば」。遠藤さんはそう願わずにはいられませんでした。
「ただいま」の声が聞こえない
遠藤さんは「杜の都駅伝」で名城大学が優勝した2005年の秋、母校の後輩たちを応援しようと仙台市まで出かけました。やはり母校にはこみあげる懐かしさがありました。卒業後は一度も足を運んでない母校。思い出がいっぱい詰まっている駒方校舎のあった名古屋市昭和区かいわいをもう一度歩いてみたいという夢はまだ実現されていません。
「校友会からの支援は本当にありがたかった」。そう語りながら遠藤さんは、「これは、いろんなところに礼状を出す時に同封しているもので、中学生たちに書かせたものです」と、カラーコピーで印刷された冊子を差し出しました。「写真と児童?生徒のことばで綴る女川町復興への足跡」。震災前の平和な町、震災後の瓦礫に埋もれた町、そして復興へ向けて元気に頑張っている子供たち。瓦礫の町の写真に添えられた「ただいまを聞きたい 声が聞こえない」など、1枚1枚の写真の下には中学生たちの連句がつづられていました。
女川は 今何色に見えますか/天国と 地獄の境は どこですか?/ただいまを聞きたい 声が聞こえない/ねえ神様 本当の幸せはどこですか?/みんなの前 笑っているかな 自分の顔/夢をより かたく決意し 明日を行く/風光る 町の未来も また光る/だいじょうぶ それは希望の 合い言葉/ありがとう 感謝の気持ち 大切に/ありがとう 今度は私が 頑張るね/夢を より固く決意し 明日へ行く/ガンバレと ささやく町の 風の声/見上げれば ガレキの上に こいのぼり/夢だけは 壊せなかった 大震災
冊子の最終ページは小学6年生の言葉で結ばれています。「女川は流されたのではない 新しい女川に生まれ変わるんだ 人は負けずに待ち続ける 新しい女川に住む喜びを感じるために」
絆の大切さ訴えた壁新聞
石巻市、女川町、東松島市を発行エリアとする「石巻日日(ひび)新聞」は津波で輪転機が一部水没、創刊99年の新聞発行が危機に立たされました。しかし、「伝える使命を全うしよう」と、記者6人が手書きの壁新聞(号外)を作製し、震災翌日から6日間にわたり発行を続け、避難所などに掲示しました。3月14日の3日目「壁新聞」では、女川町について「10 メートルを超す巨大津波を受けて、高台にある町立病院、女川二小、女川一中、総合運動公園を残し壊滅状態。現在(14日)、自衛隊を中心に救援活動が開始されている」と書きこまれました。
壁新聞はトップ見出しに「支え合いで乗り切って」(5日目)を掲げるなど被災者同士の絆の大切さを訴え続けました。6日目の紙面は「街に灯り広がる 電気復旧1万戸超す」「希望が見えてきた!」の見出しが躍っています。記者たちが、「ジャーナリストからローカリストへ」と気持ちを切り替えて発行された壁新聞に、被災者のどれだけが励まされたことか、想像に難くありません。
7月24日に発売された石巻日日新聞社編「6枚の壁新聞 石巻日日新聞?東日本大震災後7日間の記録」(角川マガジンズ)で、記者たちの指揮を取ったデスクの平井美智子さんは述べています。「日頃はうっとうしいと思うかも知れない人間関係の中の『おせっかい』という優しさ---。これらすべてが、今回の震災で改めて必要であり、大切であると感じた人は多かったのではないでしょうか。最後に、この震災を体験して、私自身が心に刻んだ言葉を記します。『合理的で、便利で、効率的な行動だけが優先されるべきではありません。人と人の間には、もっと大事にしなければいけない"絆"があり、それは人、地域を愛することから始まります』」
「壁新聞」は米国ワシントンの報道博物館(ニュージアム)にも展示され、9月25日、国際新聞編集者協会(IPI、本部?ウイーン)から「特別褒賞」が授与されました。
遠藤さんは「育て達人」でも紹介しています。
http://www.meijo-u.ac.jp/tatujin/91-105/92.html
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「名城大学きずな物語」では、東日本大震災を通して、名城大学にかかわる人たちを結びつけた絆について考えてみたいと思っています。「名城大学きずな物語」を読まれてのご感想や、どのような時に名城大学との絆を感じるか、母校とはどんな存在なのかなど、思いついたご意見を名城大学総合政策部(広報)あてに郵便かEメールでお寄せください。
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