特設サイト第7回 自動車部がつないだ絆
【名古屋市で】 津田さんを捜せ
「石巻が大変なことになっているぞ」「津田さんと全く連絡が取れない」――。東日本大震災での東北地方太平洋沿岸の惨状が次々に明らかになるに従って、名城大学の自動車部の卒業生たちの間から宮城県石巻市の津田広明さん(72)(1963年理工学部卒)の安否を気遣う声が相次ぎました。津田さんの世代に近い後輩部員たちを中心に30年ほど前から集まっている自称「紳士のつどい」のメンバーたちでした。世話人役は1967年理工学部卒の愛知県春日井市、梶田正勝さん(67)。津田さんより1学年下の理工学部の井村隆教授(69)(1964年理工学部卒)もメンバーの1人で、津田さんの家族と連絡を取ろうと懸命でした。
自動車部の誕生
津田さんは名城大学の学生時代、自動車部に所属していました。入学した1959年(昭和34年)当時は、日本ではまだ車もオートバイもめずらしい時代。前年の1958年、日産自動車は、学生たちに車に親しんでもらおうと、名城大学を含む全国の7大学にダットサンの新車を贈っています。自動車部の先輩たちが東京から永久貸与されたダットサンを名古屋まで運転して戻ってきたことは、津田さんら新入部員たちは大きな誇りでした。
機械工学科から1958年3月に発行された「名城大学機械会誌」第2号に「名城1号誕生」という、自動車部発足当時の様子が紹介されています。執筆した大西欣一助教授(1962年教授。1984年~1991年理工学部長)によると、名城大学に自動車部が誕生したのは1955年。大西助教授は「朝鮮事変と共に市場が好況を示し出し、自衛隊の膨張と共に自動車工場が急速にマスプロ化して、コストダウンされ、大衆化の第一歩をふみだした。今や自家用車も夢でなくなったのである。わが名城大学にもこの時代の要求と共に自動車部が誕生し、機械科のヒゴの下に1936年型のフォードで以て練習を開始した」と紹介されています。
ダットサンの凱旋
ただ、この旧式のフォードの恩恵は、「1日走ると2、3日は自動車の腹の下で、真っ黒になってはいまわされ、もっぱら整備の練習が大半」という状態だったようです。こうした中、1958年1月、日産自動車が名城大学自動車部などに58年型ダットサンの新車を永久貸与したのです。大西助教授の筆は踊っています。「欣喜雀躍、小沢教授、自動車部学生4名と共に上京、日産本社にてダットサン860新車の貸与を受けた。途中箱根を越え、月光に輝く銀白の富士にねむけをさまし、約14時間で名古屋入りした。本部では理事長、総長始め、多数の歓迎を受け、名城1号と命名された」。
津田さんも運転免許をとろうと、理工学部のあった中村校舎に出来たばかりの練習場のコースで、朝から晩まで運転の練習を続けました。津田さんは自動車部主将も務め、中部地区の大学の自動車部に呼びかけ全日本自動車連盟中部支部を発足させ、初代支部長にも選ばれています。参加校は9校。国立が5校(名古屋大、名古屋工業大、岐阜大、三重大、静岡大)と私立が4校(名城大、愛知大、南山大、金城学院大)です。津田さんは4年生の時、全日本学生自動車連盟の副委員長にも就任しています。
全国一周ラリー
名城大学自動車部の30人近い部員にとって最大のイベントは全日本学生自動車連盟主催の全国一周ラリーへの出場でした。100校を超す加盟大学の中から30校が参加し、全国を3つに分け、大体1週間ごとにチームを変えて走り続けます。1チームは4人。ソロバンと大きな手回し式計算機を車に積み込み、指定時間や指定速度が決められたチェックポイントをめざし、走行距離と時間を計算し続けます。津田さんが連盟副委員長だった時は北海道一周ラリーで、通過する県や市町村ごとに知事や首長たちにサインをしてもらう"サインカー"も一緒に走らせました。連盟事務局は朝日新聞東京本社内に置かれ、朝日新聞はラリーの様子も新聞で紹介してくれました。出始めたテレビでも報道されたそうです。
音速滑走体
津田さんら名城大学自動車部は、当時理工学部長だった小沢久之亟(おざわ?きゅうのじょう)教授が取り組んでいて、実現すれば東京―名古屋が30分で結ばれるといいうと音速滑走体の実験の手伝いにも駆り出されました。実験場所は最初は現在の農学部附属農場のある鷹来校舎の敷地でしたが、さらに走行区間を延ばすため、やがて鍋田干拓地に移りました。小沢教授はヘリコプターに羽根をつけた「ヘリグライダー」の開発にも取り組んでおり津田さんたち自動車部員はその手伝いにも駆り出されました。
津田さんにとって自動車部の活動は超多忙でした。特に連盟副委員長になると全国レベルでの活動が増えました。打ち合わせで東京まで出かけた翌日が、卒業にも影響する試験と重なった時は、夜行列車で名古屋に戻ったのでは間に合わず、当日朝早く、羽田から小牧まで飛行機で飛び、名鉄電車で中村校舎に飛び込んだ経験もあります。「飛行機代は連盟が出してくれましたが、試験が終わったら疲労困ぱいでグーグー寝込んでしまいました」と津田さんは懐かしそうに振り返りました。
自動車部との交流
津田さんは卒業後も理工学部機械工学科の助手として2年間大学に残ったこともあり、自動車部の後輩たちの相談に乗っていました。井村教授も助手時代、津田さんに目をかけてもらいました。津田さんが実家のある宮城県に帰り、工業高校の教員になってからは、井村教授が自動車部の面倒をみるようになりました。正式な部長とか顧問という役職はまだありませんでしたが、学生たちの遠征には同行する教員が必要だったからです。
津田さんと井村教授、OBも含めた自動車部員たちとの交流は続きました。北海道遠征の帰りには井村教授と自動車部員たちが、津田さんの勤務する宮城県内の高校を訪ねたこともありました。津田さんも石巻工業高校のラグビー部監督として、全国高校ラグビー大会には5回出場しましたが、花園ラグビー場(大阪府東大阪市)に乗り込んで来た時は、時間をつくって名城大学に顔を出してくれました。
安否情報掲示板
震災後、「紳士のつどい」のメンバーたちは、津田さんの無事を確認しようと連絡を取り合っていました。井村教授もインターネットの安否情報掲示板を使い津田さんの家族と連絡を取ろうと懸命でした。津田さんの家族からやっと無事を知らせるメールが入りました。石巻市渡波(わたのは)の津田さん方は、津波で1階が浸水、物置や家財、車が流出しましたが、奥さんは仙台に出かけていて難を逃れました。他の家族も無事でした。
携帯テレビ電話
3月20日(日曜日)夜、梶田さんや井村教授ら「紳士のつどい」の14人が名古屋駅前にある名城大学名駅サテライトに集まりました。津田さんへのお見舞い策を決めるためです。津田さんの無事は確認できたものの、震災から9日たつのに、津田さん本人との電話は誰もつながっていません。井村教授が思いついて、津田さんの奥さんの携帯に電話してみました。「はい津田です」。聞き覚えのある声でした。そして、電話が津田さんに代わりました。「おー元気だぞー」。津田さんの声が飛び込んできました。
携帯電話がテレビ電話モードに切り替えられました。画面に懐かしい津田さんの笑顔が現れました。井村教授も梶田さんらメンバーたち全員に熱いものがこみ上げてきました。
メンバーたちは当初、井村教授の提案で、ワゴン車に救援物資を積み込んで石巻市に向かうことも検討していました。しかし、メンバーの都合もあり、救援物資ではなく義援金を集めて送ることを決めました。送った現金書留が、津田さんが身を寄せていた宮城県内の弟さん宅に転送され、梶田さんのもとに津田さんから「届いた。ありがたかった」と感謝の電話が入ったのは1週間後でした。
50年の絆
【石巻市で】大川小学校との明暗
宮城県石巻市では、北上川河口にある大川小学校で、全校児童の7割にあたる74人の児童と10人の教職員が死亡?行方不明となりました。なぜこれほど多くの犠牲者が出たのか、つらい検証作業が進められています。同じ石巻市の津田さんが園長を務める石巻みづほ第二幼稚園では、津田さんの決断で園児と教職員らが屋根の上に避難し、24人の命が救われました。
津田さんは「大川小学校の惨事は人ごとではない悲しいできごとです。私の幼稚園は残っていた園児が11人しかいなかったから何とか対応できましたが、100人以上が残っていた時間帯だったらどうなったか。私立幼稚園の多くは今回のような津波に襲われた時の対応マニュアルはきわめて不十分というのが実情だと思います。反省点はたくさんあります」と、子供たちの命を預かる責任の重さをかみしめています。
「毛布の女性」その後
前回、石巻みづほ第二幼稚園の屋根の上に避難して救出された園児たちの話を紹介しましたが、園児の頼音(らいと)ちゃんと母親の杉本優子さんの続報です。一時安否不明となった頼音ちゃんの無事を案じ、毛布をまとって立ち尽くす杉本さんの写真は、読売新聞を通じて海外にも配信されました。特に欧米では「津波の惨禍を象徴する1枚」として主要紙や雑誌で紹介され大きな反響を呼びました。
この写真はフランス南部のペルピニャン市で開催された世界最大の報道写真展「国際フォトジャーナリズムフェスティバル」でも展示されました。杉本さんは頼音ちゃんとともに招待され、9月2日には各国から参加したジャーナリスト約3000人を前に「子供の無事が確認できるまでは時間が止まってしまったようでした」と辛かった体験を語りました。
フランス国営テレビは、フランスに1週間滞在した杉本さん親子を取材、9月16、17日には石巻市を訪れ、杉本さん宅や頼音ちゃんが現在通っている石巻みづほ幼稚園への通園風景も取材しました。番組は12月に放映されるそうです。
「犠牲になった人たちのことを思うと、フランスからの招待を受けていいのかどうか、最後まで迷いました」という杉本さん。津田さんや幼稚園のスタッフたちに対しては「命の恩人です。感謝しても感謝しきれません」と声を詰まらせました。
園児たちの命を救った津田さんの決断は、世界中に、親子の絆の尊さを教え、大きな感動を与えたと言えるでしょう。
津田さんは「育て達人」でも紹介しています。
http://www.meijo-u.ac.jp/tatujin/91-105/91.html
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「名城大学きずな物語」では、東日本大震災を通して、名城大学にかかわる人たちを結びつけた絆について考えてみたいと思っています。「名城大学きずな物語」を読まれてのご感想や、どのような時に名城大学との絆を感じるか、母校とはどんな存在なのかなど、思いついたご意見を名城大学総合政策部(広報)あてに郵便かEメールでお寄せください。
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