特設サイト第4回 学生たちは絆を見つけた
【宮城県気仙沼市大島で】 瓦礫撤去で流した汗
名城大学からのボランティア学生たちは6月3、4日の2日間、宮城県気仙沼市大島で瓦礫撤去などの活動に汗を流しました。名古屋と気仙沼をバスで往復した時間(片道14時間)加えるとボランティアの旅は2日から5日まで"1泊4日"の強行日程でした。
東日本の多くの被災地の中で大島が選ばれたのは、大学側から校友会東北支部長の野神修さん(1962年理工学部卒)に、「できれば卒業生との絆や縁があるところに送り込みたい」と打診があったのがきっかけでした。野神さんから相談を受けた気仙沼市建設部課長の広瀬宜則さん(1981年理工学部卒)の頭にすぐに浮かんだのが大島でした。広瀬さんにとって大島は、本土と結ぶ悲願の架橋実現を進めている守備範囲の現場。「お互いの目が届く範囲でまとまって活動してもらえる」と判断したためです。
ブルーのバンダナ
ボランティア活動に参加した学生は30人でうち女子学生が4人。教職員は今西文武学務センター長(名城大学東日本大震災生活支援本部長、経済学部教授)ら6人。3班に分かれて瓦礫の撤去作業に汗を流しました。泥で埋まった田畑を手でかき分け、破損した断熱材や建材、ガラスやプラスチック類などを分別しながらかき出して集めていく根気のいる作業。全員の腕にはブルー地の布に「絆」と書き込まれたバンダナが巻かれていました。学生たちは大学側の募集に、「被災地の復興に少しでも役立ちたかった」「何もしないわけにはいかないと思った」などそれぞれの思いで参加を申し込みました。ただ、同じ名城大学生と言っても初めて顔を合わる学生たちも多く、目印が必要でした。バンダナは目印としての役割と、参加者同士が絆を深めて頑張ろうという願いをこめて、ボランティア協議会に所属する学生たちが作りました。
体験レポート
大島でのボランティア活動に参加した学生たちが後日、学務センターに提出したレポートには、大島での体験についての思い、ブルーのバンダナに対するいとおしさがにじみ出ていました。
<農学研究科1年男子>
分別作業をしている時に、漁師さんに、地震の後に親父さんが沖に船を出しに行ってしまい、高台からその船が転覆する瞬間まで見たという話を聞いた時は何も言葉が出ませんでした。そんなことがあっても、ずっと復興に尽力している姿を見ると、ちょっとしたことで疲れたなどとは言えないと思いました。
<法学部3年男子>
この活動で一番に思ったことは、決してあきらめず、みんなと絆がつながっていれば出来ないことはないということです。復興活動をする人たちの絆があれば、すごいパワーになります。
<法学部4年男子>
帰りのバスでみんなで感想を話し合っていた時の全員の目がキラキラ輝いていた。それぞれがこのボランティアでたくさんの事を得たような感じを受け、なんかうれしくなりました。ボランティア協議会が作ったブルーの布に書かれた絆を身につけたことで、みんなの絆が深まった結果だと思います。
<農学部3年女子>
当たり前がどんなにありがたいことか、強く感じました。まだまだ問題はたくさんで、時間がかかりますが、少しの力の積み重ねが大きな力になり、復興に近づいていくんだと思いました。プロジェクトに参加でき、たくさんの素晴らしい人たちと出会えて、心から良かったと思います。このような機会を与えてくれた全ての人に感謝します。
<法学部3年男子>
現地の人の感謝の言葉や笑顔でさらにやる気が出ました。わずか2日間という短い期間でしたが、何か行動することに意義があるのだと深く感じました。目の前に困っている人がいたら手を差し伸べ、お互いで支え合うのが私たち人間であり、当たり前のことなのです。
<法学部2年女子>
被災地に行って大きな発見をしました。それは人の「和」です。わがままを言う人はおらず、自然に助け合っていました。人間は絶望的な状況でも、助け合って生きていけることを証明できたと言っても過言ではありません。
<経済学部4年男子>
私は大学生活で、何もしてこなかった気がしてならなかったのですが、たった2日間の活動でとても充実した気持ちになりました。私たちができたことは少しだったかも知れませんが、現地の方の心、私たちの心に大きなものを残したと思います。「絆」という腕章は、はじめは「こんなの付けるの」と思っていましたが、今となっては大切な宝物になっています。
先輩、後輩をつなぐもの
ボランティア活動に汗を流す学生たちに対し、校友会東北支部の野神支部長、同支部理事で仙台市の谷口正成さん(1964年理工学部卒)、気仙沼市で被災した堀籠正生さん(1964年理工学部卒)の3人も大島入りし、労をねぎらいました。昨年3月まで東北文化学園大学の教授を務め、名城大学での助手、講師時代を含めると大学教員歴46年という谷口さんは、さすがに学生たちとの会話は慣れている様子で、「瓦礫の撤去作業も大変な作業だが、世の中にはもっともっと厳しい生活をしている人がたくさんいることを忘れてはいけないよ」とやさしい眼差しで声をかけていました。堀籠さんも「若い後輩たちが一生懸命やってくれたことがとてもうれしかった」と目を細めていました。
4日夕。大島でのボランティア活動を終えた学生ら36人が、気仙沼から名古屋に戻るためバスに乗り込もうとしていました。乗り込む一人一人と握手を交わしながら涙にむせぶ広瀬さんの姿がありました。やはり広瀬さんと固い握手を交わした今西学務センター長は「広瀬さんには大島までの案内役もしていただきましたが、広瀬さんの感激の様子に、僕らももらい泣きしました」と振り返ります。
「あの時は感謝の気持ちでいっぱいでした。来てくれた学生たちとは会ったこともないし、世代も違う。それでも、ああやはり自分は名城大学を卒業した先輩なんだ。手を握っているのはみんな後輩なんだと、絆のうれしさをしみじみ感じました」。広瀬さんはこみあげて来る熱いものをかみしめるように、その時の思い出を語ってくれました。
学生たちが帰った後、広瀬さんは大島の人たちから「ところで課長、どうして名古屋の名城大学の学生たちがわざわざ大島に来てくれたんですか」と聞かれたそうです。「私の母校なんです」。広瀬さんが誇らしげに答えたのは言うまでもありません。
【仙台市で】語り合った被災体験
学生たちが大島から名古屋市の天白キャンパスに戻った6月5日。仙台駅東口の仙台ガーデンパレスでは、名城大学校友会東北支部の2011年度総会が開かれました。野神支部長ら支部会員25人のほか、大島への学生引率を終えたばかりの今西学務センター長、名古屋の校友会本部から支部担当副会長の伊庭克英さん(1971年薬学部卒)、特別講演「認知症と記憶について」の講師として招かれた薬学部の平松正行准教授の3人も出席しました。
総会では野神さんのあいさつ、今西センター長からの大島でのボランティア活動の報告に続いて、伊庭さんは「震災からまだ3か月もたっていないのに、例年通りの立派な総会が開催されています。東北支部の皆さんの復興への気持ちの強さをひしひしと感じます」とあいさつしました。
この後、大震災を体験した出席会員たちからの報告が行われました。伊庭さんはその報告の一つ一つに胸を打たれました。「校友会本部に提出する報告書にしっかりと残さなければ」。懸命にメモをとりました。
「周りの状況は伊勢湾台風の時を思い出させる光景である」「建築業。友人知人の耐震診断で寝る時間もない忙しさである。すべてボランティアでやっているが、悪質業者もいて困っているとのこと」「放射能の風評被害が大変で今後も心配である」「息子さんが津波にのまれ、流されながら、何かの柱に必死につかまって何とか助かった。その体験談が生々しかった」――。
記されたメモ
広瀬さんもマイクを握り、気仙沼市の災害対策本部で対応した体験をもとに、惨状を語り、そうした状況であったからこそ、「名城大学から学生たちが大島にボランティア活動に来てくれたことに、大島の島民がとても感謝している」と報告しました。
広瀬さんに続いてマイクを握ったのはやはり気仙沼市から参加した堀籠さんでした。「カメラを持って家の外に出たら、ゴーという地鳴りが聞こえました。津波の引き潮で建物が次々に流されているところでした」。ここまで話すと堀籠さんは言葉を詰まらせ、目頭を押さえたままいすに座り込んでしまいました。女性を乗せたまま流されていた建物の残骸。やはり流されていく家の屋根の下から聞こえた「助けてー」という子供の悲鳴。堀籠さんの脳裏には生々しい記憶が押し寄せていました。フラッシュバック現象です。
肩を落として頭を垂れる堀籠さん。伊庭さんは「本当につらかったんだろうな」と思ったそうです。メモには「その時の光景を思い出されたのか、涙をこらえられず、感きわまってそのまま言葉にならず着席」と記されていました。
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「名城大学きずな物語」では、東日本大震災を通して、名城大学にかかわる人たちを結びつけた絆について考えてみたいと思っています。「名城大学きずな物語」を読まれてのご感想や、どのような時に名城大学との絆を感じるか、母校とはどんな存在なのかなど、思いついたご意見を名城大学総合政策部(広報)あてに郵便かEメールでお寄せください。
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