特設サイト第1部 第9回 中華交通学院の思い出を語る
志は高かったが運営資金で行き詰まり
校舎一角に「華僑東海小学校」も開設
――中華交通学院に関わった愛知華僑総会会長の丁秀山さんに聞く
中華交通学院に関わった当事者の話を聞くことができました。同学院の教員(講師)で、安藤百福理事長、呉主恵院長の秘書的な役割を果たしていた愛知華僑総会会長の丁秀山さん(87)です。丁さんは中国青島出身で、名城大学の前身である名古屋高等理工科講習所が創立された1926年生まれ。北京大学で政治学を学んだ後、日本留学を目指して来日、早稲田大学で呉主恵氏と知り合い、中華交通学院創立に参画しました。中華交通学院の閉校後は、南山大学講師、名古屋大学外国人教授、中京大学教授を務め、名城大学でも非常勤講師として1996年4月から2001年3月まで、法学部で中国語を教えました。
――呉主恵氏との出会いを教えてください。
北京大学を卒業して日本で勉強をしようと思いましたが、戦争中でなかなか中国から出られませんでした。終戦になってやっと釜山港から船で博多に向いました。1946(昭和21)年の10月後半に東京に出ましたが焼け野原でした。アルバイトをしながら、留学生だった友人を頼って早稲田大学に出入りしているうちに、その友人の紹介で出会ったのが呉主恵先生でした。「私と一緒に名古屋に来ませんか。学校を創立することになりましたので」と誘われました。通訳も含めて手伝ってほしいということでした。22歳の時です。
――主恵氏は孫文の「交通による建国」という夢を果たしたかったと回顧録で述べています。
中国が清の時代から中華民国を建国するにあたり、日本で応援してくれる人がたくさんいた。そのつながりで、これから発展していくにはもっと日本の力を借りなければと思い、力を貸してくれる日本人を養成するための学校を作ろうということになったのではないかと思います。最初は単科大学を目指し、やがて鉄道学科、しばらくしたら船舶工学科、さらに航空工学科、最後に交通管理学科と総合交通大学を目指す予定だった。私も含めてみんなで考えました。開校は日本のカレンダーに合わせ、1947年4月。開校式には南京政府(国民政府)の交通大臣や教育大臣が来るなど、華々しかったですよ。
――志願者が1万5000人あったと言われています。
私は、最初は名古屋ではなく、大阪府泉大津市にあった百福氏の会社に行きました。後に日清食品となっていく会社ですが、当時は中華交通学院開設のための臨時事務所が置かれていました。名古屋に来たのは1947年4月の開校式の時でした。百福氏は大阪で商売をしていて、貿易的なことをしたり、喫茶店を経営したり、いろんなものを販売したりしていました。終戦直後の生活が困難な時代に、中華交通学院は、学費がいらない、下宿代もいらない、食事もつく。年2回の制服も用意された。トヨタも教材として機械の切断面が見える模型なども提供してくれたし、院長が乗る乗用車も1台くれた。教員、設備もそろっており、当時、そんな学校なら誰でも行きたかったと思います。だから1万5000人はオーバーではありません。北海道にも試験場を設けましたし、私も試験用紙を持って九州に行きました。かなり成績が優秀な学生が集まりました。
――主恵氏の回顧録に収められていた中華交通学院スタッフ名簿に、「図書組長」として丁さんの名前があります。
私は図書館の仕事はしていません。「文書組」に所属して、日本人学生たちに中国を教える講師をしながら秘書の仕事を兼務していました。講師には名古屋大学の先生たちも非常勤で相当来ていましたし、終戦直後で自宅に風呂がないこともあって、中華交通学院に風呂に入りに来る先生たちもいました。
――中華交通学院は生徒が60人、教職員と合わせても100人余だと思います。1500人も収容できた名古屋陸軍造兵廠の生徒舎の施設は広すぎたのでは。
そうです。使い切れない建物や部屋がたくさんありました。自分の気に入った部屋に引っ越し、床を張りなおして別荘みたいに使う生徒もいた。中華交通学院が使用する前はアメリカの駐留軍兵士たちが使っていましたので、私が初めて入った部屋も、天井に軍刀が突き刺さったままで、ヘルメットが捨ててあった。あちこちに捨ててあった銃の部品を拾い集めて組み立て、実験してみようと、空に向けて発砲する者もいた。校庭は草ぼうぼうで、野菜畑も作られていました。近くの幼稚園や保育園が運動会をやるので貸してほしいと言ってきたこともあります。
――名城大学の駒方キャンパスとなってからの航空写真があります。写真で見てもキャンパスの広さが分かりますが、中華交通学院はどのあたりを使っていたのですか。
授業は⑦と⑧でしました。①と②が寮。③は教員宿舎でした。④が講堂で下は食堂でした。⑩の奥半分は「華僑東海小学校」として使い、30~40人の生徒が通っていました。華僑の小学校は現在、横浜、神戸、大阪にありますが、当時、名古屋にもつくろうということになり、中華交通学院から1年遅れて1948年に開校しました。校長は中華交通学院総務所長兼教授の果浩東さんという方でしたが、私は教務主任を兼務しました。
――中華交通学院にはブラスバンド部もあったという話もあります。
ありました。戦時中は銅器、鉄器などはみんな軍に徴収されましたが、戦後、隠してあった楽器がどこからか出て来たんです。中華交通学院はそれを高い値段で買い、ブラスバンドを作った。大阪から軍隊で吹奏楽の指導をしていたという先生に来てもらい練習をしました。私もトランペットをやりました。近くでお祭りがある時などよく演奏に出かけ、当時の名古屋では話題になりました。
――中華交通学院の近くには他にどんな学校がありましたか。
南山大学の前身である南山外国語学校がありました。中華交通学院では外人の英語の先生を探していたので、南山に頼みに行きました。すると向こうも、「うちも中国人の先生を探しているので協力してほしい」ということで、教員を交換し合い、講師料は相殺しようということになりました。私が交換要員になりましたが、中華は1クラス、南山は3クラス。私も若かったこともあり、南山での2クラス分をアルバイトの感覚で引き受けましたが、呉主恵院長からは「形だけでも学校に相談してほしかった」と叱られました。
――百福氏の自伝などによると、卒業した1期生たち17人の同窓会が1994年に40数年ぶりに名古屋で開かれ、出席できなかった百福氏が著書『苦境からの脱出』など記念品を贈ったと書かれています。
同窓会が開かれたということは知りません。卒業生には裁判所で書記官をやっている人もいましたし、出身地に帰った人、中国に行って日本語の先生を目指した人もいた。今は連絡を取れる人は一人もいません。百福氏が自伝で紹介している裁判官とか会社経営者になった方のことは知りませんが、そうした人材は中華交通学院が養成したのではなく、自分の経験を生かし、自分の努力によって築いた地位だと思います。中華交通学院に入ってきた人たちの中には予科練に入るために大学を中退した人など復員者もいた。旧制中学校や高校からいきなり入ってきた人たちではなく年齢的には20歳代後半が多かった。
――中華交通学院が短命で終わったのはやはり経営資金の行き詰まりですね。
百福氏はやさしい人でしたが、学院経営のやり方的には首を傾げざるを得ません。授業料は全く取らないで制服、ネクタイ、ワイシャツも支給した。食事代も宿舎代もただ。参考書を買う小遣いまでくれた。学校を経営する場合、掲げる目標が高ければ高いほど、広く、大きく考えなければならないと思います。呉主恵氏もおとなしく、人にやさしかった。余計なことはしゃべらない学者タイプでした。しかし、志は高かったものの、次第に限られた範囲でしか見えなくなっていった。主恵氏は中華民国政府と華僑からの資金援助に期待したが、中華人民共和国の誕生で、蒋介石は台湾に逃れた。華僑の力で日本に大学をつくろうというのは無理な話だったのです。結局、中華交通学院の可能性は見放されました。主恵氏は名古屋を去った後は東洋大学教授となり、そこで学位を取りました。
中華交通学院から譲られた電話番号
「うちの電話番号は中華交通学院が使っていた番号なんですよ」。戦後の1946年から駒方キャンパスすぐそばの昭和区花見町に住んでいる公認会計士の伊藤宗太郎さん(84)も中華交通学院の思い出を持っていました。「学校と寮が一緒にあって、日本人の学生のほか中国人の方がたくさんいました」。
伊藤家は代々、松坂屋百貨店の前身である「いとう呉服店」の番頭だった関係で、知り合いも多く、中華交通学院の電話番号の話も4代目番頭だった父親の付き合い仲間からもたらされました。「中華交通学院が引っ越しするが電話が余る。いりませんかということになり、それならもらうわ、ということになったんです。今は局番が3ケタですが、当時は2ケタでした」。伊藤さんはそう言いながら、名刺にある公認会計士事務所の電話番号を指差しました。
中華交通学院が短い歴史に幕を閉じた1951年、伊藤さんは同志社大学経済学部の学生でした。1948年の入学時は旧制で、1952年の卒業時は新制に変わっていました。そのまま同志社大学の大学院に進むつもりでしたが結核にかかり名古屋の自宅で療養生活を余儀なくされました。幸い、ストレプトマイシンの効果で短期に回復しましたが、回復に合わせるかのように、名城大学初の大学院として商学研究科が誕生しました。自宅から目と鼻の先にある駒方キャンパスに誕生した大学院。1期生として入学することに伊藤さんの迷いはありませんでした。1954年4月のことです。
(広報専門員 中村康生)