特設サイト第1部 第4回 名城大学の誕生と名古屋専門学校の併存
名専と名城大学で募集4000人
名城大学は名古屋専門学校(名専)の開校(1947年9月)で悲願の高等教育機関の仲間入りを果たしましたが、2年後には大学に昇格します。1949年4月の名城大学開校です。日本の教育システムに「6?3?3?4」の学校制度が導入されたことで、大学?高等学校?専門学校に分かれていた旧高等教育制度は新制大学に一元化されることになったのです。1949年度には、名城大学も含め178校の新制大学が発足しました。2年前に開校したばかりの名専も、名城大学への移行に伴い、1953年4月の入学生を最後に募集を打ち切ることになりました。
商学部(第一部、第二部)のみで開校した名城大学は翌1950年には早くも法商学部、理工学部、農学部(いずれも第一部、第二部)、短期大学部(第一部、第二部)を増設します。名古屋市中村区新富町の中村校舎だけだったキャンパスも、1950年5月からは昭和区駒方町に駒方校舎、1951年4月には愛知県春日井市に鷹来(たかぎ)校舎が開設されます。経営母体である「財団法人名古屋高等理工科学園」は1951年3月に「学校法人名城大学」となり、新制の附属中学校、附属高校を擁する大規模学園に変貌していきます。
名専もまた、開校と同時に、最後の旧制専門学校としてその余命が決まっていたのも関わらず、規模拡大路線を走っていました。名専と名城大学が併存した1953年度の「入学試験一覧」が「名城大学75年史」に掲載されていました。附属中、高校を除く募集人員は4000人。途中入学者の「若干名」を加えると4000人を超える計算です。名城大学誕生からはわずか4年しかたっていませんでした。
ユニバーシティとカレッジ
名専の第二部応用物理学科電気分科に1948年に入学し、1951年に卒業した村松栄さん(愛知県長久手市)と大矢宣明さん(名古屋市天白区)に卒業アルバムを見せてもらいました。「名古屋専門学校」ではなく、「名城大学」の校章が印刷された表紙。扉ページには「昭和廿六年十月 應用物理電気工学科 第三期生」という表記とともに、「名城大学」と「名古屋専門学校」の校名が併記されています。
カラーページには中村校舎にあった「名城大学本部」と、白雲のなびく青空を背景に「meijo university」と「nagoya college」のイラスト文字が躍っています。名城大学と名専の英語表記です。次のページには田中壽一校長(学長)の写真とともに積み重ねられた3冊の本の上に名城大学の徽(き)章入りの角帽が置かれています。
キャンパス紹介のページもあります。村松さんや大矢さんが通った「枇杷島校舎」(中村校舎)、入学当時の名専本館。ただ、正面入り口左の柱には「名城大学」、右の柱には「名古屋専門学校」のプレートが張られています。鷹来校舎の「農学部本館」、駒方校舎の写真もあり、まさに総合大学のたたずまいを漂わせています。
名城大学の歩んできた歴史の中で、慌ただしく躍り出た名専の立場を象徴するような写真もありました。卒業式(1951年11月3日)の写真です。村松さん、大矢さんら大半の同期生たちが初めて訪れた駒方校舎講堂での卒業式。名古屋高等理工科学校(高理工)の第4回卒業生が贈った「高理工」の校章入り式典幕を背に、卒業証書を手渡す田中校長。名城大学の校旗が置かれています。
「名専の校旗も、名専の角帽もあったのにアルバムには登場していない。卒業式典でも本来なら名専の校旗を置くべきでしたし、アルバムにも残すべきでした。ただ、時代が時代というか、大学中心の流れになっていて、僕らも名専を専門部と呼んでいました。さらに言うならば、やがて名専の名前は消えるわけでしたから、ずっと残る名城大学の名前も併記しておきたいという思いもありました」
卒業した62年前に作られたアルバムを手に、大矢さんは語りました。アルバム編集委員には村松さんら3人の学生も加わっていましたが、制作作業は委託した業者ペースにならざるを得なかったそうです。
アルバムでは使われなかった「名専」の徽章入りの角帽。長野県下伊那郡三穂村(現在の飯田市)出身の村松さんは、入学と同時にあこがれだった角帽を買い求めました。「田舎には角帽をかぶり、胸を張って帰省しました」と懐かしそうでした。
総合大学であることの誇り
急激に総合大学としての存在価値を高めていく名城大学の膨張ぶりに、名専の多くの学生たちは誇らしさを感じていたようです。村松さん、大矢さんと同じ1948年に名専応用物理学科数学分科3年生に転入学した野末(旧姓堀尾)勇さん(静岡県浜松市)もその一人です。名専(ナゴヤカレッジ)をもじった「NC」のバッジを大切に残していた野末さんですが、「名専の実態はユニバーシティー。名古屋地区では名古屋大学以外、私立では名城が唯一の総合大学でしたから」と強調します。
野末さんによると、当時、名古屋地区では旧制の高校、専門学校の卒業生や在学生たちで作る「さわらび会」という集いがあり、野末さんは名専の代表者とし顔を出していたそうです。「総合大学は名城だけだったので威張って出ていましたよ」。野末さんは誇らしそうでした。
1947年時点での名古屋地区の私立大学と前身の専門学校
大学 | 専門学校開設年 | 専門学校 |
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同朋大学 | 1921(大正10) | 真宗専門学校 |
金城学院女子大学 | 1927(昭和2 ) | 金城女学校専門学部 |
椙山女学園大学 | 1929(昭和4) | 椙山女子高等専門学校 |
安城学園大学 | 1930(昭和5) | 安城女子専門学校 |
南山大学 | 1946(昭和21) | 南山外国語専門学校 |
名城大学 | 1947(昭和22) | 名古屋専門学校 |
天野郁夫『旧制専門学校』(1978.5日本経済新聞社)より