特設サイト【名城大学通信第47号】名城大学物語

名城大学前史としての田中壽一のドイツ留学~東北帝国大学助教授時代に文部省在外研究員として滞在 期待裏切られた帰国命令と名古屋高等理工科講習所の開設~

  • フンボルト大学(旧ベルリン大学)を訪れた新城
    フンボルト大学(旧ベルリン大学)を訪れた新城

 名城大学創設者の田中壽一(1886~1960)が、東北帝国大学理学部の助教授時代、文部省在外研究員として留学していたドイツからの報告が、「国民新聞」に5回にわたり連載されていました。1924(大正13)当時、第一次世界大戦後の超インフレ下のドイツの様子を生々しく報告しています。田中には書き残した記録が少なく、ドイツ留学中に執筆されたこの連載記事は、名城大学開学前史と田中の大学経営観を探るうえでも興味深い内容と言えそうです。(敬称略)

広報専門員 中村康生

文部省の在外研究員

  • 田中壽一氏(1954年卒業生のアルバムから)
  • 田中壽一氏(1954年卒業生のアルバムから)

 田中が文部省(現在の文部科学省)の在外研究員として、ドイツに留学したのは1922(大正11)年3月から1924(同13)年7月までの2年余です。

 文部省の『学制百年史』などによると、1919(大正8)年から昭和初期までに年間100~200人が在外研究員として国費により海外に派遣されました。

 わが国では大正期以降の進学意欲の高まりを受けて、高等教育機関の拡張が政策課題となりました。1919~1924(大正8~13)年の「高等教育機関拡張6か年計画」により、帝国大学の学部増設のほか、高等学校等の官立学校29校が新設されることになり、公立?私立大学も制度化され発足しました。これに伴い教員数は大学だけで、1918(大正7)年の970人から1930(昭和5)年の5941人へと12年間に6倍強も増えました。1920(大正9)年に創設された在外研究員制度は、こうした質の高い教員確保という狙いがありました。

国民新聞に掲載された超インフレ報告

 田中がドイツに留学した際の現地報告が、当時の「国民新聞」に掲載されていました。国民新聞は、明治、大正、昭和の言論界を先導したジャーナリスト、歴史家であった徳富蘇峰(1863~1957)によって1890(明治23)年に創刊された日刊紙です。

 田中のドイツ報告は1924年3月3日から5回にわたり、「文部省在外研究員報告」として、「東北帝大助教授理学士 田中壽一」の肩書で掲載されました。大衆紙ならではのセンセーショナルな見出しとともに連載が続きました。

「金は独逸にうなってゐる」

 第1回の見出しは「金は独逸にうなってゐる」。記事の全文です。

  • 「国民新聞」に掲載された田中壽一の在外研究員報告(神戸大学経済経営研究所新聞記事文庫より)
    「国民新聞」に掲載された田中壽一の在外研究員報告(神戸大学経済経営研究所新聞記事文庫より)

 独逸の国情については、すでに7、8月頃(昨年)に、物価下落せず、必ず騰貴を来すべきことを詳説し、かつマーク(マルク)の下落は独逸の故意に出づるもので、商工業家の莫大なる利益を収めつつあるを説きました。

 かの鉱山王スチンネス氏の如きは、米国ロックフェラー氏等を凌いで、実に世界第一の富豪であると称せられており、伊国の一小島においては、正に帝国の如き権威を有し、地中海諸島に独逸船舶を見ること、戦前にもなき盛況である。それは彼等商工業者は決して、紙幣マークで取引をやったのではない。日本人がレンズ、ピアノ、電気機械器具、機械類等、何を取引するにも、決して戦前より安くなき金貨マーク、即ち外国紙幣で商ったのである。

 而して、工賃は紙幣マークの下落の差を利用して、非常に安くなるのである。特に国家大商業、工業家(特にスチンネスその他ラインランド地方の工業家及び各連邦サクセン、バイエルン等の如き)各都市は、そのノードゲルト(応急紙幣)を発行し、多く発行したものだけ多くの利益を得ている。

 例えば、スチンネスがこの紙幣を本日1000万磅(ポンド)発行するとせよ。10月、11月頃の如く、毎日マークが2分の1に下がったとすると、10日の後には、即ち1000分の1の値、換言すれば彼は10日以後には唯1万磅を支払えば可であり、1か月もすると零の値になり、彼は支払わずして1000万磅儲かったことになる。独逸政府も日々発行した何千万、又は何億という金を今日では一文も支払わんでもよいのではあるまいか。

 かかる理由で独逸には金がウナッて居る。見よ、伯林(ベルリン)市内に散策し、ダーレムその他到る所、空前の盛況で、相連続して別荘の建てられて居ることを――。何を考えたのでしょう。(つづく)

不足分は紙幣の印刷機械が引き受けた

 田中が留学中の1920年代前半のドイツはインフレと試練の連続でした。1921年のロンドン会議でドイツの賠償総額は1320億金マルクと決定されましたが、疲弊しきったドイツの経済状態では、多額な賠償の支払い能力はありませんでした。

 マルクの貨幣価値は大幅に下落し、第一次大戦後のインフレは、その後破局的なハイパー?インフレーション(超インフレ)の様相を呈し始めました。「1923年4月には正規の歳入は、この飛躍的に上昇した財政需要のわずか7分のIをまかなうに過ぎない状態に陥った。不足分は紙幣の印刷機械が引き受けた」(エバーハート?コルプ著『ワイマール共和国史』)という状態に直面したのです。

 しかし、こうした中で首相に就任したシュトレーゼマンによって、国内の統合が驚くほど迅速に進みます。外交的孤立が着々と打開され、1923年秋にはインフレーションは終息し、通貨は安定していきます。

田中流の視点

 田中のドイツ報告には田中流の視点での分析が随所に見られます。

「労働者達だって毎日、肉もパンも豊富。日本人の多くは芝居見物に行くのは命の洗濯と考えている。吾人にしても1年1回以上、芝居に行くという事は事情が許さない。経済が伴わない。否、学生時代の借金を返すすら至難だ。然るに彼等はカフェーに酔い、劇場に享楽することは、茶を呑み、飯を喰う事と余り変わりない。之をなさぬものは到底人間以下であって、普通でないと考えている」(第2回報告)

「総理は単に理学及び哲学に於いてのみ之を得る。即ち神の状態の考察で、倫理学者は此の哲理を応用して、人間の不完全を幾分訂正する事に努め、社会学者は更に卑近の社会に実行さるべき部分を考えたがよかろうと思う。人民をオダテ上げて、理想生活を説き、不可能の事を断行せんとする彼等は百害あって一利なしと考え得られる。とにかく独逸政府は、暴力、否、適□(印字が薄く判読できず)なる政策で成功してマークを抑えた」(第3回報告)

「経済原理などは人間の心情行為の結果に過ぎない。それを忘れた学者は理論に反するなどと言って驚いているだろうが、独逸では此の暴力が成功しているのである。故に結局、経済学など云うものは人情学である。その人情は古今東西を通じて変化しない」(第4回報告から)

「世間では独逸にはまた、過去のような変動が起きるなど信じている人があり、独人中にもまたそう思っている者が多いが、私は今迄、新聞で材料を集め、之が事実に照らしてみているが、独逸は之で全く落ち着くものと認めます」(第5回報告の文末)

 借金を抱えた自分の学生時代に比べたらインフレといえ、ドイツは豊かだ。空論を述べる社会学者は百害あって一利ない。成功に導くのは力しかない。経済は人情学。誰が何と言おうと、自分が新聞で集めた材料での結論に全く間違いはない――。田中が報告を通して主張したかったのはこうした点であるようです。後の学校経営に対する姿勢とも重なりそうです。

陸軍軍人の目にとまった田中報告

 第1回報告に登場する「鉱山王スチンネス氏」とはユダヤ人大実業家フーゴー?スチンネス(1870 ~1924)のことです。「国民新聞」に掲載された田中のドイツ報告は、陸軍軍人で、軍命でユダヤ人研究にあたっていた安江仙弘(1888~1950)の目にとまります。安江が「包荒子」のペンネームで書いた『世界革命之裏面』(1924年12月17日初版)という本で、田中の記事を取り上げていました。

「田中氏は猶太(ユダヤ)人のことには言及せず、単に独逸には金がウナッているというが、このウナル程の金は独逸人のものではなく、猶太人のものであり、又別荘は建てられる、至る所空前の盛況を呈しているのは、独逸征服者の猶太人であることは勿論である」

 安江は、1918年のシベリア出兵に参戦。ロシア革命における君主制崩壊の背景を分析のため、ユダヤ人研究にあたったと言われています。

浜松高等工業学校教授へ

  • 講義する田中壽一(名古屋専門学校1951年卒業アルバムから)
  • 講義する田中壽一(名古屋専門学校1951年卒業アルバムから)

 ドイツ留学を終えた田中は1924年7月30日付で浜松高等工業学校(現在の静岡大学工学部)の教授に就任しました。同校「一覧」(1924~25年)の職員欄には、教授の1人として田中の名前がありました。「従六、理学士 田中壽一 福岡」。東北帝大理学部助教授の時は正七位でしたが、身分は従六位(正六位の下、正七位の上)に上がっています。担当科目は理論電気、電気磁気及測定、力学、無線電信電話理論、電気実験、実習です。

 助教授には、電気機械、無線電信電話、実習を担当する高柳健次郎の名前がありました。高柳は東京高等工業学校附設教員養成所を卒業。1924年春、自身の郷里でもある浜松市に開校したばかりの浜松高等工業学校助教授に就任していました。高柳は1926(大正15)年、世界で初めてブラウン管にイの字を映し出すことに成功し、1935(昭和10)年には全電子式テレビを完成させます。

田中が送った文献と高柳健次郎

 高柳の著書『テレビ事始~イの字が映った日』(1986年、有斐閣)には田中の名前が登場します。高柳がテレビ実現への最大の課題であった、レンズから入ってきた光が映像を結ぶまでの間に鏡を入れる方法に取り組んでいた時、ドイツから届いた田中が集めた文献と出合ったのです。

「新しくオープンした浜松高工の図書館に、ドイツ留学中の田中先生から沢山のドイツ語の書籍や雑誌が届いた。そして、その中に、オーストリアのエル?ミハリーという人の『ダス?テレホール』という著書があった。それは、テレビジョンの実験をし、それをまとめた本である」「ミハリーは、このように、スキャンナー(走査機)として振動鏡を用いることを研究し、一番簡単な像ということで、十字架の像の送受に成功したのである。それが大正13年7月ごろ、ドイツから届いた本にあったわけである」

 25歳の高柳は『電気之友』(1924年10月号)に「無線遠視法」のタイトルでテレビへの思いを寄せています。

「ああ、無線遠視法。これが完成されたなら、私たちの幸福はどれだけ増すであろうか......」。

名古屋高等理工科講習所の創設へ

 高柳が『電気之友』でテレビへの夢を膨らませた1924年、田中は2年後に、名城大学の前身である名古屋高等理工科講習所を開設するきっかけになる会合に出席していました。電気学会東海支部の要請で出向いた名古屋市中区の朝日会館での講演会です。

「大正13年、電気学会東海支部により依頼されて、朝日会館において相対性原理について講演したことがある。それで、名古屋には高等工業学校に電気科もなく、又、名古屋大学も県立より国立に移管されたばかりの医科大学。従って我輩は、名古屋には良い学校がないから、電気学の高等知識を学ぶ夜学でもと、夜間の高等工業程度の名古屋高等理工科講習所を始めた。文部省研究員としてドイツに学ぶこと2年。各地を見分し、テキニッシュ?ホッホ?シューレ(工業大学)がほとんど無設備で、各教授は理論研究に没頭するは、吾人の考慮と符合すると覚えて創立した」(1959年発行の「名城大学校友会報」創刊号への田中の寄稿の要旨)

期待裏切られた帰国命令

 「大正13年」(1924年)は田中がドイツから帰国し、7月から浜松高等工業学校教授に就任した年です。「名城大学校友会報」で述べている通りだとすると、田中には最初から浜松高等工業学校の教壇に立つつもりはなかったのではないかとも推察されます。

 この推察を裏付ける話が1970(昭和45)年に発行された「名城大学教職課程部紀要」第3巻に掲載されていました。「教職課程20年の歩み」として、 田中に請われて大阪府立大学教育学部長から名城大学教授に迎えられ福山重一(1909~1992)が、芦屋大学学長として行った記念講演です。

 福山は「田中先生から直接聞いた話」として次のように述べています。「田中先生はドイツ留学中、浜松高等工業学校の校長候補として、途中に帰国を命じられた。ところが、どういう都合であったのか、校長に任命されなかった。憤激して文部大臣に辞表をたたきつけて退官し、その時得た退職金を基にして、名古屋高等理工科講習所を設立したとのことでありました」。田中にとって、期待を裏切られた帰国命令だったのです。

 1926年5月1日、田中は名古屋市中区御器所町古市場20番地(現在の中区千代田3丁目)の私立尾張商業学校内に置いた臨時校舎に、名城大学のルーツである名古屋高等理工科講習所を開設しました。

ベルリンを訪れた田中壽一の孫

  • 祖父田中壽一の思い出を語る新城健藏
  • 祖父田中壽一の思い出を語る新城健藏

 2013年5月8日。田中の孫である新城健蔵(72)はベルリン市街地にあるフンボルト大学ベルリン(旧ベルリン大学)の前に立っていました。田中がベルリン大学に留学していたと書かれた資料を読んだことがあり、夫婦での欧州ツアーの際、祖父の足跡をたどってみたいという思いにかられての訪問でした。

 「HUMBOLDT UNIVERSITAET」。大学名が掲げられた建物を見上げながら新城は「おじいちゃん来たよ」とつぶやきました。「今の時代でも簡単に行けるわけではないが、90年前はもっともっと大変だっただろうと思いました。お国のために学んで来いと文部省から派遣されたわけですから。一種の遣唐使だと思いました」。

 愛知県豊田市で病院を経営する医師の新城は田中壽一の初孫でした。病死した先妻マツと田中の間に生まれたのが新城の母千代です。名前は、田中が東北帝大時代を過ごした仙台に由来するそうです。初孫とはいえ外孫で、両親とともに医師である父親の出身地、沖縄県宮古島市で高校時代まで過ごしました。

 新城は1960(昭和35)年4月、名古屋大学医学部に入学。田中は孫の入学がよほどうれしかったようで、大学公用車に新城を乗せ、名古屋市内の駒方校舎、八事校舎、中村校舎、春日井市の鷹来校舎を案内してくれました。

 しかし、この年の名城大学は、田中の大学経営への反発が引き金となった紛争が激化していました。田中は11月11日、仮名で入院していた名古屋大学付属病院6階の病室でひっそりと74歳の生涯を終えました。

 面会禁止でしたが、新城は孫であり、名古屋大学医学部生ということで臨終に立ち会いました。「人目を忍んでというか、寂しい最後でした。小柄だったおじいちゃんがさらに小さくなっていました」。祖父の晩年の年齢となった新城は写真で見る田中にそっくりでした。

本記事は2014年春発行の「名城大学通信第47号」を一部抜粋したものです。
役職等はその当時のものとなっております。予めご了承ください。

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