特設サイト第3部 第5回 紛争と学生

  • 記念写真に収まる薬学部卒業生たち(名古屋観光ホテルでの第2回スペシャルホームカミングデイで)
    記念写真に収まる薬学部卒業生たち(名古屋観光ホテルでの第2回スペシャルホームカミングデイで)

田中理事長の復帰

  • 出回った田中氏を擁護する文書
  • 出回った田中氏を擁護する文書

田中壽一理事長の強引な経営姿勢への反発で勃発した名城大学紛争は、いったんは田中理事長の退陣表明(1954年11月15日)で収束するかに見えました。しかし、田中氏は代わって就任した伊藤萬太郎理事長(理工学部教授)の職務執行停止の仮処分申請を名古屋地裁に起こすなど相次ぐ裁判戦術を含めた復帰工作を活発化させます。「名城大学田中総長後援同志会」や「名城大学正論派同志会」を名乗る団体名での田中氏擁護の文書も相次いで登場しました。

そして1958年8月14日、日本私立大学協会の河野勝斎会長(日本医科大学理事長)の仲介で、理事長復帰を果たします。1958年9月1日「名城大学新聞」は「学園の民主化達成記念特集号」として発行されました。「4年2ヵ月の紛争に終止符 田中寿一氏理事長に復帰」のトップ記事に続いて、「教学の殿堂を築こう」という田中理事長、「組織的運営のみが真に大学を育てる」という大串兎代夫総長の談話が掲載されるとともに理事会、教授会声明の全文が掲載されています。

  • 田中理事長復帰を伝える「名城大学新聞」(1953年9月1日)
  • 田中理事長復帰を伝える「名城大学新聞」(1958年9月1日)

「明朗清新なる民主的学園を建設」
(新理事会声明全文〉

本日ここに正規の理事会が新たに成立し、多年の不幸なる内紛に終止符を打つに至りましたことは誠に喜びにたえないところであります。
この間、学生及び卒業生諸君、教職員各位に対し、さらには社会一般に対しても多大の御迷惑をかけたることを深く陳謝するとともに、このたびの解決をもたらすために、陰に陽に御教示、並びに御支援を賜った前調停委員はじめ、事件の円満なる解決のために多大の御尽力を賜った公私の関係者各位に対し、衷心より感謝の意を表する次第であります。
この上は、前調停委員による調停案の精神に即し、全理事、自粛、反省、協力、一致して速やかに再建の実を挙げる覚悟であります。
我々は今回の内紛によって来(きた)った源泉について率直、深甚なる反省を行い、将来再びかかる不祥事を重ねざるよう、私学の本義に即し自主と伝統の上に立ちながら、経営を組織し、寄附行為の誠実なる施行体制を確立するとともに、諸施設の処務規定の整備を急ぎ、もって明朗清新なる民主的学園を建設する決意であります。
更に、内紛に伴いし、各人の行動は、これが愛学の精神に出でたる以上、之を責め、不当に解雇するが如き小乗の途をとることなく、総知総力を統合し、もって大乗的再建を図りたい所存であります。右声明します。

昭和33年8月14日
学校法人 名城大学理事会

「暗い想い出はさらりと忘れて…」

1面下のコラム「点睛(てんせい)」には、4年余に及び重い気持ちで紛争についての記事を書き続けてきた学生たちの喜びが弾けています。(要旨)

▼煙くともあとは寝やすきかやりかな、という句がある。この句はだれが書いたか忘れたが、新しくできた理事会も教授会も学生も、どうか学園発展のために新しい気持ちで出発してもらいたい。私学においては、理事長はオールマイティーであるが、われわれ学生としては、今後、以前の寺子屋大学に戻るか総合大学としての面目を保っていくか、非常に関心を寄せていると思う。しかし、現在の段階ではそんな理想論を云々(うんぬん)するより理事会の良識とその手腕を信頼して、しばらくは静観の立場を取るのが一番の親孝行?ではないだろうか▼卒業生は就職のシーズンである。学園紛争解決という大きな精神的力を得て存分にその力を発揚し、それぞれの職場を確保してもらいたい。すでに社会に巣立って行かれた先輩諸兄も、学園の問題が新聞に掲載されるたびに肩身の狭い思いをされていたと思うが、紛争の解決された現在、本学の名を高めしむるためにも明るく努力されんことを期待している▼月にロケットを打ち上げようとしている時代ではないか。大きく息を吸い込み、暗い想い出はさらりと忘れて、力いっぱい叫ぼうではないか。名城大学万歳と……。

  • 1958年8月14日の理事会であいさつする田中新理事長(「名城大学新聞」より)
  • 1958年8月14日の理事会であいさつする田中新理事長(「名城大学新聞」より)

1958年11月13日、理事長、学長の就任式が行われました。理事長には伊藤萬太郎理工学部教授に代わって田中壽一前理事長が、学長には大串兎代夫法商学部教授に代わり日比野信一農学部教授が就任。名城大学は4年余の紛争期を乗り越え、中部地区の私大では唯一の総合大学として再生へのスタートを切るかに見えました。「点睛」のコラムを書いた新聞会の学生が「大きく息を吸い込み、暗い想い出はさらりと忘れて、力いっぱい叫ぼうではないか。名城大学万歳と……」という思いが、やがて無残に打ち砕かれることになると誰しもが予想すらしませんでした。しかし、田中理事長の復帰は、実は第1次名城大学紛争から第2次名城大学紛争への折り返し点でしかなかったのです。

翻弄されながらも母校に誇り

2014年3月19日に開催された卒業後50年余の卒業生たちを招いて開催された2回目の「スペシャルホームカミングデイ」では、紛争の荒波に翻弄されながらも、母校の再生を信じ、卒業後も母校を誇りに生きてきた卒業生たちが思い出を語ってくれました。

  • 小立さんが持ち込んだ「中部日本新聞」1957年11月7日夕刊記事
  • 小立さんが持ち込んだ「中部日本新聞」1957年11月7日夕刊記事

兵庫県篠山市出身で、1956年に理工学部建築学科に入学、60年に卒業した小立(おだち)哲平さん(名古屋市南区)と同級生の田原常吉さん(埼玉県戸田市)。懇親会場のテーブルで2人は、小立さんが持ち込んだ1957年11月7日「中部日本新聞(現在の中日新聞)など各紙夕刊に掲載された名城大学の紛争の記事コピーに見入っていました。記事には紛争の早期解決を求めて名古屋弁護士会館前の廊下に座り込む学生たちの写真が大きく掲載されています。「この右の2人が私と田原君です」。小立さんが指差しました。

第1次紛争当時、田中氏側は、選任された伊藤理事長の就任は認められないとして名古屋地方裁判所に理事長の職執行停止仮処分を申請。裁判所は伊藤理事長の職務執行停止を命じるとともに、広濱嘉雄弁護士を理事長職務代行者に任命しました。名古屋地裁は、教育現場を舞台にしての訴訟問題であることから関係者に和解を指示。しかし、和解の条件の中には田中氏の理事長復帰の条件が含まれ、大学側は、田中氏の理事長復帰を認めての和解には学内諸規定の整備、理事長と学長の分離体制を確立させることが不可欠であるとしたため調停は難航し、訴訟合戦は混迷を深めていました。

1957年度に入り、日本私立大学協会の河野勝斎会長、明治大学の松岡熊三郎総長が調停委員に選ばれ、調停が進みましたがこう着状態が続いていました。小立さんも田原さんも自治会役員でもない一般学生でしたが、「大学で勉強しようと田舎から出てきているのに、紛争のあおりでの休講が何度もあり、何とかしなければと思い座りこみストに参加しました」と小立さんは振り返ります。田原さんも「人に頼まれて座りこんだのではない。行動すべきだと思ったんです」と相槌を打ちました。

小立さんは名鉄栄生駅近くに下宿していましたが、この日帰ると、下宿のおばさんに「小立君、きょうはどこに行っていたの」と、座り込み中の写真が載った夕刊を突き付けられたそうです。新聞コピーを持ち込んだことについて小立さんは、「もう田原と会うのも最後だと思って、学生時代の思い出にあげたかった。きょうは立派な卒業式を見て、名城節ではないが、母校の名は自分が死んでも残るんだと実感しました」と感慨深そうでした。

東京で「名城建設」を創業

  • 「弁護士会館での座り込みの思い出を語った田原さん(左)と小立さん
  • 弁護士会館での座り込みの思い出を語った田原さん(左)と小立さん

小立さんは卒業後、大手建設会社の錢高(ぜにたか)組に勤務しました。田原さんも東京の三井建設に7年間勤務後、1967年に独立して「名城建設」を起こしました。文京区の会社に「名城建設」の看板を掲げたことについて田原さんは誇らしそうに語りました。 「もちろん私が名城大学を卒業したからです。それと、私自身が新たな城を築きたかったから。“真心と技術であなたの城を築きます”をキャッチフレーズに東京ではたっぷりと名城の名前をPRさせてもらいましたよ。今年で47年目。従業員は20数人で、今でも社長をやっています」。

田原さんはもともと名古屋市西区出身。空襲で名古屋城が焼け落ちたとき自宅も焼失し岐阜に引っ越しました。金シャチが輝く名古屋城のように、いつまでも輝く大学でありたいという願いから命名された名城大学ですが、子どものころから名古屋城を見て育った田原さんには特別な思いがあったのかも知れません。「東京では、なぜ名城建設かとよく聞かれますが、私はいつでも胸を張って、名城大学を出たからですと言っていますよ。本当は東大を出たかったのですが」。紛争で翻弄され続けた母校ですが、田原さんは力強く語り、胸を張りました。出身大学別社長数で中部地区で名城大学がトップを占めているのも、田原さんのような卒業生たちの活躍があるからこそなのでしょう。

在りし日の夫と

  • 英介さんの写真を手にする内山さん
  • 英介さんの写真を手にする内山さん

函館市からスペシャルホームカミングデイに参加した薬学部4期生の内山光恵さん(1961年卒)は、他界した同じ薬学部で1学年上だった夫英介さん(1960年卒)の写真をバッグに忍ばせていました。内山さんは北海道出身ですが、英介さんは高知県出身。内山さんが入学したのは1957年。薬学部がやっと八事校舎に自前校舎を構えて間もないころでした。

「八事は何もなくて、あるのはお墓ばかり。主人とはよくお墓でデートしましたよ。名城で一番のいい男でした。結婚して函館で暮らしましたが、階段から落ちる事故で亡くなりました。がっかりだよね」。今年、17回忌を済ませたという内山さんは、そっとバッグから英介さんの写真を取り出して見せてくれました。本来なら一緒に参加するはずだったかもしれない英介さんに、紛争に明け暮れたつらい時代に、ともに頑張り合った仲間たちの姿を見せてやろうとしているようにも見えました。

  • 思い出を語った山本さん(左)と内山さん
  • 思い出を語った山本さん(左)と内山さん

内山さんと同じ薬学部4期生で、青森県弘前市から参加した山本セツさんも同期生の征治さんと結婚しました。山本さんは、内山さんが英介さんの写真を取り出す様子をやさしく見守りながら語りました。

「私たちの学生時代は紛争で本当に苦労しました。懇親会に先立って愛知県体育館での卒業式を見せていただいて浦島太郎みたいな思いにかられました。私たちのころは駒方校舎の講堂も火事でなくなり、栄町の建物で細々と卒業式をした記憶があります。今の学生は幸せですよね」。スペシャルホームカミングデイ会場でもある名古屋観光ホテルに前日から宿泊した内山さんと山本さんは、一緒に横浜でもう一泊した後、それぞれ北国に帰りました。

(広報専門員 中村康生)

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