<鼎談者紹介>
加藤裕治氏 弁護士(愛知県弁護士会?愛知さくら法律事務所)
1951年 愛知県尾張旭市生まれ
1966年 愛知県立旭丘高校入学
1975年 早稲田大学法学部卒業
1975年 トヨタ自動車株式会社入社
1984年 トヨタ自動車労働組合に専従
2001年 自動車総連会長、連合副会長に就任
2002年 中央教育審議会委員に就任(~2009年)
2008年 名城大学法科大学院入学、(公財)中部産業?労働政策研究会理事長に就任
2009年 内閣府参与?行政刷新担当に就任(~2011年)
2012年 名城大学法科大学院修了、同年司法試験合格
2013年 愛知県弁護士会に登録(愛知さくら法律事務所に所属)
日比野泰久 教授
名城大学大学院法務研究科長
研究者教員 (民事訴訟法要論 等担当)
梅津和宏 教授
名城大学大学院法務研究科広報委員長
元名古屋法務局長、大阪法務局長、旭川地?家裁所長、札幌地裁所長、東京高裁判事
実務家教員 (民事裁判演習 等担当)
鼎談
- 日比野教授
- 今日はお忙しいところありがとうございます。加藤裕治さんをお迎えして、梅津先生と3人で鼎談をさせていただきたいと思います。加藤裕治さんは仕事を持ちながら、法科大学院の授業と両立して勉強を進められ、しかも法科大学院修了1年目で司法試験に合格されました。その辺のご苦労もお聞きし、かつ、今後名城大学の法科大学院を目指そうとしている方々へ、何か夢や、示唆を与えていただければという趣旨でこのような企画を立てさせていただきました。どうぞよろしくお願いします。
弁護士を目指すきっかけ
- 梅津 教授
- では、私から。今日で弁護士になってから、2年ほど経過したということでよろしいでしょうか。
- 加藤弁護士
- そうですね。開業してからは1年4か月くらいです。私は登録してすぐには仕事に入らずに、出版社に頼まれて本を書いていました。本が書きあがったのが、3月末くらいでしたから、そのあと4月から仕事を始めたということです。本のタイトルは「56歳からの挑戦」というのですが、平成26年5月に出版しました。
- 梅津 教授
- 実際、弁護士になられて、昔思い描いていた弁護士像と、現実とを比べて、違いなどありますでしょうか。
- 加藤弁護士
- 思い通りだったかといわれれば、弁護士という仕事に、あるイメージは持っておりました。友人に弁護士がいたり、私が企業で8年間法務部門にいた、ということもありましたので。そういう意味では現実とのギャップはそんなに感じてはおりません。ただ、私は、今までの一般の弁護士像として描かれている弁護士ではない弁護士、「当たり前ではない弁護士」になりたいという野望を抱いていましたので、そこの領域に今達するための階段を着実にのぼっているという感じはまだ持てていない、というのが現状です。現状は、仕事が少しずつ来るようになって、結構忙しくやっておりますけれども、私の目標としている弁護士の姿が今の延長線上にあるのかないのか、それすらも今まだ模索中といった方がよいと思います。
- 梅津 教授
- 他の方とは違う、思い描いていた野望、志といってもいいと思いますが、それはどういうことなのでしょうか。
- 加藤弁護士
- 私は、二十数年間労働運動に携わりまして、そのうちで、最後の後半の十数年は国際労働運動の幹部をしておりました。ヨーロッパやアメリカ、アジアなどいろいろな国々の方と交流をする中で、特に私が感じたことは、アジアの労働組合の支援がなかなか難しいということです。我々がイメージした様な組合運動に育っていくのかどうか、その辺が危うい状況があると思っていました。そういう分野に、単に組合OBというだけであれば、今後長く携わっていくことはできないだろうと考えたわけです。そこで弁護士という資格を持って、自分がアジアで培った人脈、あるいは運動を肌で知っている感覚、そういうものもうまく生かして、アジアで活動する日本の企業労使に対し、アドバイザーのような役割を果たしたいということを、自分の最終目標にしたいと考えています。ただ、まだ全然たどりつけていない状況です。
- 梅津 教授
- その一方で現在やられているお仕事としてはどのようなことが中心でしょうか。
- 加藤弁護士
- 「加藤がどうやら弁護士をやっているらしい」ということが、私のこれまで関係してきた方々のお耳にはいるようになったからでしょうか。弁護士を開業して1年くらいして、やっと仕事が舞い込むようになってきました。それまでは極めて暇だったのですが。今は、民事を6件と示談案件を2件、外国人がらみの行政訴訟を2つ、刑事事件を1つ、やっております。まあ1人でやるにはそこそこの仕事をやらしていただいていると思います。民事も相続もあれば損害賠償請求もある、といういわゆる町弁の仕事です。
- 梅津 教授
- それはそれで一つのやりがいですね。
- 加藤弁護士
- そうですね。日々、緊張じゃないですが、やっぱり依頼者との関係で、依頼者の思いを一身に背負ってやらせていただいています。私は、即独立で、たった1人でやっていますので、そういう意味では、その責任の重みのようなものは日々感じて、それはやりがいのある仕事だと思っています。それで、去年たまたま舞い込んでいた相続がらみの調停などでは、結構自分の思い描いたとおりにいって、相続人の皆さんから大変感謝されたことがあるのですが、そういう喜びは、こういう仕事じゃないとやれないかなと思います。全くの他人ですから。それは思いました。
- 梅津 教授
- 今後は、そういう仕事と、国際労使関係のアドバイザー的な仕事とを車の両輪としてやられようとしているのでしょうか。
- 加藤弁護士
- 両方をすることができるのか、それともどちらかに絞ってやらないといけないのか、その辺も今模索中です。国際労使関係の方でいいますと、私は、今のところ一番とっつきやすいインドネシアを中心にネットワークを作ろうと思ってまして、弁護士になってからも3回ほどインドネシアに行っているのですが、3年くらい勉強したら日常会話位できるだろうということで言葉の勉強もしたりしています。まずはインドネシアを皮切りに、ゆくゆくはすこし難しそうなカンボジアやミャンマーといったところにも行ければいいなと思っています。
- 梅津 教授
- いずれにしても1年4か月でそのような実績はすごいですね。もともとの潜在能力の凄さもおありだからということも???
- 加藤弁護士
- 若い弁護士さんに比べれば、別のところで仕事をしていた分、そういう風に事件が舞い込んだり、ということもあったでしょうね。
- 日比野教授
- 「即独」だったのですか。
- 加藤弁護士
- 渥美弁護士に頼んで、彼の事務所に机を置かせてもらっています。いわゆる「軒弁」の場合は、経費を払わないらしいのですが、私の場合は経費を一部払って、事務員さんにお手伝いをいただいたりする形です。そのための家賃プラスアルファをお支払している感じです。
- 日比野教授
- それで、そもそも56歳からの弁護士挑戦、ということでしたが、何か56歳という年齢に意味はあったのでしょうか。
- 加藤弁護士
- 56歳に特に意味はあったわけではないですね。たまたま56歳だったということなのですが、自分が自動車総連の会長をそろそろ降りないといけない、潮時だろう、というのが人事の絡みであったのが一つです。それからもう一つが司法制度改革が行われ、私が56歳だった年が2008年でしたが、2年目の新司法試験が行われていて、当時は6~7割の学生が弁護士になれるという触れ込みだったですから、私のような者でも法科大学院に通えばなれるかもしれないという気持ちもあって、たまたま名城大学が夜間だけでも修了できるということも聞きましたので、それでそういう気持ちになったということです。ちょうど受験が退職する60歳と重なったのですが、それは狙ってそうやったわけではなくて、たまたま前職を引退することを決めたのが56歳だったということです。
- 梅津 教授
- 僕なんかの経験でいうと、55歳位が気力、体力の衰退の始まりみたいに感じていたんですが、56歳からというのはどうだったのですか。
- 加藤弁護士
- それは別に違わないんじゃないのかなと思うわけですね。私の前任者はみんな60歳まで仕事をやりましたので、私も現職を続けることはできたかもしれませんが、トップの仕事に疲れたということもありました。
- 梅津 教授
- 新たなことをやる気力はあったということでしょうか。
- 加藤弁護士
- そういう意味では、前職でたまったストレスというか、やりたくてもやれなかったことがたくさんあって、それが頂点までたまっていたということはありました。その反発エネルギーで新しい世界に飛び込んだということです。
- 梅津 教授
- もともと法学部のご出身でしょうか。
- 加藤弁護士
- そうですね。法学部を出ております。ただ、そんなに法律の勉強をしなくても卒業できる時代だったので、単に法学部を出たというだけです。
- 梅津 教授
- 当時、司法試験の受験を考えたことなどなかったのですか。
- 加藤弁護士
- 大学1年の時には、少し考えました。司法試験のサークルがあって、人に誘われていったことがあったのですが、その勉強の光景をみると、十数年勉強しておられる方がいたり...。ちょうど夏前位に行った際に択一試験をやってみないかといわれやってみたのですが、こんな問題を解く人の気持ちがしれない、と当時思いましたね。これは自分にはとても合わないな、と感じましたので、そこで完全に断念しました。
- 梅津 教授
- ただ、新たに勉強するに当たって、なにか残ってはなかったのでしょうか。
- 加藤弁護士
- それは、やはり一応、その法律がどういうものなのかという位は、残っていましたね。例えば理工学部をでて法科大学院に来られた人と比べると、ちょっとはあったとおもいます。
- 梅津 教授
- 自動車総連の仕事をやめられて、生活はどうされたのでしょうか。
- 加藤弁護士
- たまたまちょうどポストが空いていた、トヨタグループ労使が作っているシンクタンクの理事長をさせていただいて、経営と研究の両方をやるという立場を頂戴しました。そこなら勉強と両立できるだろう、という配慮を頂いたということです。
- 日比野教授
- その時には、すでに法科大学院に行こうと決めていたということでしょうか。
- 加藤弁護士
- 決めていました。すでに適性試験も受け、ある程度見通しもついていました。当時、名城大学法科大学院の篠田先生のところにも訪問させていただいて、私のようなものでも可能でしょうか、というご相談をさせていただき、「やれるんじゃないの」といわれました。そういう前提のあるもとで、新しい職にも就かせていただいた、という状況です。
- 梅津 教授
- 常勤でしょうか。それから勤務時間は。
- 加藤弁護士
- 常勤です。勤務時間も午前9時から午後5時まで拘束されます。ただ午後5時まで職場にいると、法科大学院の授業に微妙に間に合わないものですから、4時45分には職場を出るようにさせてもらいました。職場の理解という意味で非常に恵まれていたと思います。ただ、一方で、ほかの会社に行って講演をしてくれとか、しばらくの間、中教審の委員もさせてもらっていましたから、東京での仕事もしていました。普通のサラリーマンに比べるとそういう時間は結構とられていたと思うんですね。半年間位は月に3回くらいは東京に出かけていました。
- 日比野教授
- 法科大学院の学生をやりながら、中教審の委員でもあった、ということでしょうか。
- 加藤弁護士
- そうです。変な感じですけれども。前日に東京に行っておいて、翌日の朝、審議会に出て、3時くらいまで居て、東京から直接名城大学の法科大学院に通うという形でした。ちなみに私は法科大学院の授業は1日も休んでおりません。遅刻は1?2回あったかもしれませんが。平日は夜の授業だけ参加しておりましたけど、土曜日は昼間の授業もとっておりました。
- 梅津 教授
- 昼夜開講制度を最大限生かされたということですね。
- 加藤弁護士
- そうですね。
- 日比野教授
- そもそも法科大学院に行こうと考えられたときに、情報はどうやって集められたのでしょうか。
- 加藤弁護士
- それは同級生の渥美弁護士が資料を集めてくれました。その資料の中で名城大学だったら夜間も授業を行っていることがありました。そういう意味では名古屋に帰ってくるということを決めたときには、名城に行けばいいんだ、という状況は開けていました。
ご家族の反応
- 梅津 教授
- 法科大学院への進学を決めるといったときに、ご家族の反応はいかがだったのでしょうか。
- 加藤弁護士
- やっぱり、唖然としていましたよね。まだやるの、と言われました。私は組合のトップを長くやってましたので、国の仕事にも関わらせていただいて、普通の方に比べたら、断然忙しかったんですね。平日に家にいることはほとんどなくて、朝出れば、夜は12時過ぎに帰ってくるというような生活でしたから、妻にしてみると、私が引退する、といった後は、もう少しのんびりできる生活を考えていたみたいで、それで夜も大学に行くんだという話をしたときには、まだこの先があるのか、という感じで悲しそうな顔をしていましたね。
- 梅津 教授
- お子様はどうでしたか。
- 加藤弁護士
- 子供は娘が3人おりますが、その時には就職もして、結婚相手もほぼ決まっているような状況でした。むしろがんばってねという、応援するよという感じでした。
法科大学院に入ってからの学習
- 日比野教授
- 法科大学院に入ってからはどのような感じでしたでしょうか。思い描いていたこととかなり違ったりしましたでしょうか。
- 加藤弁護士
- 自分が思い描いていたことより、数倍きつかったです。私は、最初の年の前期は休学して後期(9月)から入学したのですが、例えば、前期に「民事訴訟法要論I」が終わっていて、「民事訴訟法要論II」から始めざるを得ない状況でした。日比野先生の授業で、伊藤眞先生の教科書について、「読んできましたか」という質問を受け、「読みました」とお返事をし、さらに「わかりましたか」という質問に対して「わかりました」と返事をいたしました。今思うとなんという軽はずみな返事をしたんだ、と赤面します。ちっとも分かってなんかなかったんですから。私は大学時代は、マスプロ教育の大学でしたから、少人数の授業は経験したことがなくて、ソクラテスメソッドなるものをやるらしい、ということを知ってはいましたが、こんなに厳しいものなのか、ということを感じました。ですから、日々、闘いでしたね。今日は、ちゃんと答えられるかなとか。
- 梅津 教授
- 授業を一番前で受けられるなど、心構えもかなりのものだったのですね。
- 加藤弁護士
- そのとおりです。何も知識がなくて、どこかの予備校で勉強したとか、旧司法試験をやっていたとか、何もないものですから、本当にゼロからのスタートで、司法試験にパスするためにはどうすればよいのか何もわからずにやっていました。私にとっては授業がすべてでした。法科大学院を履修すれば、6?7割の人が弁護士になれる、という触れ込みでしたから、法科大学院の授業を全部自分のものにしなければならないという思いでした。まず最初の半年間は、決められた授業と教科書にきちんとついていくことを行いました。ただそれすらもなかなか大変で、翌日の授業の予習に一科目3時間使っていました。それで寝るのは大体午前3時とかが多かったです。最初の半年は、睡眠時間は平均で、4時間を切っていました。
- 日比野教授
- 一番前に加藤さんが座られて真剣な表情で向かわれることに対して、こちらも結構な緊張感をもって授業をやっていました。迫力はすごかったですね。
- 加藤弁護士
- 一言ももらすまいと思って、食いつくように授業を聴いていました。私は自分独自のノートを作っていたのですが、ノート1ページを縦に三区分して、一番左に予習した事を書いてきて、授業で聞いたことを隣りの区分に書いて、さらにその右の区分には発展的に調べないといけないことなどをそこに書き込むといったことをしていました。その意味では、本当に聞き逃すまいという形で授業に集中していました。
- 梅津 教授
- 寝るのが3時や4時だったとのことですが、短期決戦であればともかく、長期戦ですので体力やモチベーションを維持するのが大変だったのではないでしょうか。その辺のコントロールはどのようにしたのでしょうか。
- 加藤弁護士
- 決められた期間ですべての科目を修得して卒業しよう、そして2012年の司法試験を受けよう、ということは固く決めていました。1科目でも落としたくはなかった。最初の半年で9科目とっていたのですが、死に物狂いでとにかく勉強をしました。それで、最初の半期の単位を取りまして、まずはホッとしたのと、少しは見通しがつくようになった。その後は科目数も少なくなったので、勉強時間も確保でき、睡眠時間も少し増えました。
- 梅津 教授
- 今の現役の学生にも聞いてほしい話ですね。そうしますと、半年終わってその後の四月以降の睡眠時間などはどのような感じでしょうか。
- 加藤弁護士
- 少し増えましたね。試験前は、3~4時間になることもありましたが、5時間台くらいです。なお、土日に「寝だめ」はしましたし、日曜日に息抜きをすることもありました。私は長いことテニスをやってましたので、日曜日はテニスをやるようにしたりしていました。
- 梅津 教授
- 長丁場になると、メリハリ、切り替えが大切になりますよね。
法科大学院に入ってからの学習
- 加藤弁護士
- そうですね。その後は、授業の数自体は減って行ったので、その分、司法試験の受験勉強の方に時間を割いていきました。
- 梅津 教授
- それはいつごろからでしょうか。
- 加藤弁護士
- 本格化したのは、2年を終えてから位でしょうか。私は半年間遅く入学していますので、1年半を終えて、いわゆる3年次に入ったときに、本格的に論文式の答案練習を始めましたね。ただそれまでも、私の問題として択一のスピードが若い学生さんに比べるとスピードが遅いということがありましたので、択一の勉強だけはしていました。択一については1年生の頃から、肢別本を毎日やっていました。
- 日比野教授
- 若い学生仲間との触れ合いというのはありましたでしょうか。
- 加藤弁護士
- 私の場合はあんまりなかったですね。夜の授業が終わったら、翌日のために、ちょっとでも早く帰って勉強したいと思うことがあったので。それでも3年生になって位からは、気持ちの余裕も出てきて、仲間を集めて5人くらいで勉強会を始めました。毎週土曜日に、MSAT(注‐名古屋駅前にあるサテライト校舎)をお借りしてやりました。それはそれでとても役に立ちました。
- 梅津 教授
- 支援員(注‐教育支援を行う若手弁護士)によるゼミなどは受けておられたのでしょうか。
- 加藤弁護士
- 受けてました。それも3年目からですね。
- 日比野教授
- 結構活用されていたのでしょうか。
- 加藤弁護士
- 活用していました。ただ、行きたいと思っても時間が合わなかったりしたこともありました。
- 梅津 教授
- 教育支援ゼミに対する評価はどのようなものでしょうか。
- 加藤弁護士
- 私はものすごくよかったです。やはり答案練習でただペーパーに書いて、模範答案と引き合わせるというだけではなくて、支援員の方の細かい評価をいただいて、赤ペンやコメントも入っているし、点数もつくし、それはすごく励みになりましたし、自信がつきました。
- 日比野教授
- その答練というのは、受験新報を利用されたということですか。
- 加藤弁護士
- 受験新報は3年目の後半くらいから約1年半くらいやりましたね。
- 梅津 教授
- 必ずしも割り切れるものではないとは思いますが、その司法試験対策というのと、授業の比重というのはどのくらいでありましたか。
- 加藤弁護士
- 私の感覚としては半々くらいでした。が、先ほども申しましたが、私は授業を落とすことに恐怖感があって、絶対に落とすまいという気持ちでやってましたので、授業の予習復習も相当時間をかけていましたので、受験勉強用の時間はそれほどなかったかもしれません。
- 梅津 教授
- 授業が司法試験合格に結びつくという面はあるとおもうのですが。
- 加藤弁護士
- 大いにありました。休み時間に学生同士でよく話をしまして、若い学生からは、この先生の授業で司法試験のためになるのかな、という話も聞きましたが、私にとっては、そういう先生の考え方を、じっくりと自分で噛みしめることによって、その先生が、例えば民法なら民法をどういう風に考えておられるのか、を理解しようとする。それをそのまま答案に書けるわけではなくても、頭の体操というか、その先生の授業についていくことで、授業中もちろんやり取りもあるわけで、そこにちゃんと答えていくことで、これは絶対に頭の訓練になっているはずだ、という風に確信していました。ですから、どんな授業もおろそかにしなかったし、役に立ったのではないかという気がします。
- 日比野教授
- 学生時代は楽しかった思い出などはありますか。苦しかったばかりですか。
- 加藤弁護士
- ロースクール生活で、でしょうか。苦しかったです。ただ息抜きはしました。先生方と飲みに行ったり、屋形船にのったり、というようなことは若干ありました。私は飲んでしゃべることが好きなので、それは楽しい思い出ですね。それから、ロースクールの学生同士で、定期試験が終わった後にぱあっとやろうということでみんなで飲みに行ったりですね。それはとても楽しかったですね。
- 梅津 教授
- 作りすぎている質問かもしれませんが、知識を得ていくというそのこと自体に喜びみたいなものを感じることなどおありになりますでしょうか。
- 加藤弁護士
- その点でいいますと、私は2年目から、学業優秀C奨学金(注―名城大学法科大学院のいくつかある奨学金の一つ。給与方式。)をいただけたんですね。自分がこの大学でどのくらいのポジションにいるかというのがよくわからなかったのですが、その奨学金をいただいたときに、「そこそこにいるんだ」ということがわかったということが喜びでもありました。それから定期試験の成績も結構良かって、結構「A」をとっていました。それがだんだん目標になっていた時期もありました。いろいろと小テストなどをやっていただける先生もいらっしゃってその小テストでいい点をとるというような目標もでき、日々の苦労が、そういう小さなことで報われる思いはしましたね。いろいろなツールは日常的にあって、パソコン上で択一の練習をするシステムがありましたよね。20分くらいで、他の受験者との間で順位もついて...。あれで一番をとってやろうというかたちでやりましたけれどもなかなか一番は取れませんでした。ただ、それを利用する人が少なくて、10人くらいしか使っていませんでしたね。なぜみんなあれを利用しないのか、もったいないなと思ってました。
- 梅津 教授
- ある意味、受かるか受からないのかというのは、その辺にあって、要するに積極的にチャレンジして、自分がどのくらいの位置にいるのかということを把握して、客観的な自分の位置づけということをわからないと、さらに一歩進むということはできないような気がしますね。
- 加藤弁護士
- そうですね。私は、何度も申し上げますが、授業を一つも落とさずに卒業するということでやってきました。そして、司法試験は一回しか受けるつもりはありませんでした。最初の試験で失敗したら別の道を進もうと、思っていましたので、絶対に一回で受かってやるという気持ちでやってました。そういう意味でやらねばならないことははっきりしてましたので、何が何でもその水準まで行くんだという覚悟でした。最終学年の最後の試験が1月に終わって、5月に司法試験があるまでの間の4か月くらいは、授業から解放されて、毎日受験勉強をすればよかったので、あの4か月も結構良かったですね。
- 梅津 教授
- そういうことも含めて、後輩たちに何か、伝えたい言葉というものがあればよろしくお願いします。
- 加藤弁護士
- 私が考えたことは絶対に間違ってなかったと思っていまして、ロースクールの授業を中心に勉強をきちっとやれば必ず合格水準に行く、ということ。特に論文式の方については、これを全部履修すれば受かるという確信をもってやっていただきたいです。この授業は良い、別の授業は悪いというようなことは言わずに、全部身になるんだという思いでやってもらえば、水準まで達する授業をやってもらっていると思いますので、そう思って勉強してもらいたいです。あと、受け控えとかはやめてほしいと思っています。誰でも一回で受かることはないのでしょうが、そこで絶対に受かってやると決めておけば、上る階段もやはりおのずと作りやすいと思います。もしここでダメでも、まだ後があると思ってしまうと、そこが緩みにつながるような気がします。
「法曹」についてどう考えるか
- 梅津 教授
- お話の順序が違うかもしれませんが、弁護士、裁判官、検察官といった「法曹」の仕事についてどのような思いがありますか。
- 加藤弁護士
- 私は、こんな年齢で法曹界に入っていきますので、かりにちょっと成績がよかったとしても裁判官や検事を目指す気持ちはありませんでした。しかし、法曹界の一員であるということは、この国が法治国家である以上ものすごいことと思います。もともと私自身が大学時代法学部を選んだ際に、法というものの大切さを認識していましたので、それとかかわる仕事につくのは高い価値のあることだと思っていました。弁護士であろうが、裁判官、検察官であろうが、それにかかわるということは誇らしいことだとも思っていましたね。
- 梅津 教授
- もう一つは、加藤さんは素晴らしいご経歴をお持ちなのですが、法曹という仕事は、それぞれがやってきた経験、特に場合によっては人生で挫折をしてきたことも生きてくる仕事ではないのか、という風に個人的に思うのですが、そのへんはどうでしょうか。
- 加藤弁護士
- この一年半という短い時間ですけれども、刑事事件などをやらせていただいて、被疑者に接する姿勢というのですかね、それは、私も長く別の仕事をやらせていただいているので一味違った接し方ができているはずだと思っています。民事訴訟の関係でも、依頼者との関係を作る、依頼者のバックグラウンドをわかってあげるというのはすごく大事だと思うのですが、そういう理解力は少なくとも今までのキャリアが生きていると思っています。いろんな人を見てきていますので。先ほども申し上げましたが、担当させていただいた相続関係の事案をなんとか解決したのですが、その時もそれぞれの相続人の人格や背景を理解しつつ、きめ細かく対応できたのがよかったのかなという気がします。最後納得してもらえたので。それは生きているのではないかなと思います。
今後司法試験を目指そうとする社会人へのメッセージ
- 日比野教授
- 鼎談も終わりに近づいてまいりましたが、名城大学法科大学院を選んだことについて今振り返ってみてどのように思われているでしょうか。また、これからの名城大学法科大学院に望むことがあればぜひお願いします。
- 加藤弁護士
- 名城大学の法科大学院しか、私には選択肢がなかったのですけれども、ここにきてここで勉強させていただいたことで合格できたことは間違いないので、そこの信頼感というのは私はいまでもっています。感謝もしていますし、授業も私にとっては素晴らしいものだったと思っています。今、社会人経験者がどんどん減っていると聞いてまして、「二足のわらじ」なんていうのはいなくなっているということも聞いているのですけれども、私は、大変ですけれどもやってみる価値のあるチャレンジだと思っています。多くの社会人を経験した方は、裁判官検察官ではなく、弁護士になっていくのだと思いますが、弁護士という業界も、今ものすごい大きな変化のただ中にあってみなさん苦しんでおられると思うのですけれども、ポテンシャルの高い方ばっかりですから、新たな法曹のニーズをどんどん見つけて、今までの弁護士像とは違うものが描かれていくのだろうと思うのですね。そういうところへ飛び込んで、自分も主役の一人になっていくんだ、という、そういう心構えでぜひこれからも名城の方々が合格されて、後に続いてもらえるとうれしいなと思っています。
- 日比野教授
- これから名城大学法科大学院に進学しようと思っていただいている社会人の方への素晴らしいメッセージをいただいたと思います。本日は長時間にわたりありがとうございました。