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REALIZE Stories 社会の進化を、世界の可能性を、未来の希望を、描いた者たちの物語。

2024.07.29

附属高校史と卒業生群像

おか みつひこ

岡 充彦

名城大学附属高校教頭

1966年生

 名城大学附属高校の岡充彦教頭は社会科教員として母校教壇に立ち2024年度で35年となる。母校の歩みとともに、羽ばたいた卒業生たちに関心を寄せてきた。学校周辺地域の成り立ちを調査しようとしていた普通科の生徒から「本校の歴史と地域(名古屋市中村区新富町)との関係について話してほしい」という声が上がったのがきっかけで2023年10月、普通科で行われている探究の授業で「本校の歴史を紐解く」という講演を行った。

名鉄の新路線開業と新富町校舎の誕生

  • 水田に囲まれた名古屋高等理工科高等学校の新富町校舎(1947年卒業アルバム)
    水田に囲まれた名古屋高等理工科高等学校の新富町校舎(1947年卒業アルバム)

 新富町校舎は名城大学(当時は名古屋高等理工科学校)初の自前校舎として、1942(昭和17)年、現在地に誕生した。なぜ新富町だったのか。岡教頭が注目したのは名古屋鉄道の新路線の開業だ。「戦前の新富町地区はちょっと民家があるだけで大半が田んぼ。近くを東海道線が走っていたが、名鉄は今のような路線ではなかった。1941年に新名古屋駅から岐阜方面への路線がつながったことで、東枇杷島駅と栄生駅が現在の場所に開業した。初の自前校舎建設の地に選ばれたのは、名古屋駅からもさほど遠くなく、東枇杷島駅からだと徒歩で10分もかからない通学アクセスの良さを、創設者である田中壽一が見抜いたからではないでしょうか」。岡教頭は当時の古地図を見ながら語る。
 『愛知県教育史第4巻』に収められている「昭和18年学校表」によると、愛知県内の当時の大学?高等専門学校は、名古屋帝国大学、第八高等学校、名古屋高等工業学校、名古屋薬学専門学校、金城女子専門学校、椙山女子専門学校など11校。名古屋高等理工科学校は63校ある「各種諸学校」の最初に紹介されている。教員は90人。所在地は第一校舎が名古屋市中村区新富町、第二校舎が名古屋市中区不二見町となっている。
 附属高等学校発行『名城大学附属高等学校60年の歩み』(1982年10月発行。以下「60年の歩み」)には、1944年卒業の木村典夫氏が、在学中の思い出として、「手狭な不二見から新築の新富町校舎へ移動した時が良き思い出」と寄稿している。木村氏はその後、名城大学の前身である名古屋専門学校応用物理学科を1948年3月に卒業。名古屋大学工学部機械学科研究室を経て国立鈴鹿高等工業専門学校の助教授、教授を歴任。名誉教授として2013年3月、84歳で死去している。

新富町校舎1期生だった写真家東松照明氏

  • 大型画面からメッセージを送る東松照明氏
    大型画面からメッセージを送る東松照明氏

 附属高等学校の前身となる「中等科」が増設されたのは1933(昭和8)年だった。誕生したばかりの新富校舎の中等科入学者の中には、戦後日本を代表する写真家で、長崎の被爆者、米軍基地周辺、沖縄を撮影した社会派写真家の東松照明(とうまつしょうめい)氏(1930年~2012年)もいた。新富町と同じ中村区の亀島尋常小学校から電気科に入学した。東松氏らが入学した1942年は、太平洋戦争開戦の翌年。戦時体制が強まり、旧制の中学校、工業学校、商業学校では生徒たちの軍需工場への勤労動員も本格化していた。 1943年に機械科教員として赴任した第9代校長の螺澤(かいざわ)一男氏(在任は1977年4月~1989年3月)は「60年の歩み」に、授業どころではなかった生徒たちが「学力に自信を失っているのも無理はない」と書いている。生徒たちは1944年に、動員先の豊和重工業(清須市)で〝勤労授業?を受けたこと、1945年4月から大隈鉄工所(北区)、6月からは大同製鋼星崎工場(南区)での勤労奉仕に駆り立てられていった。 『愛知県教育史第4巻』に収められている「学徒勤労出動工場調査」(1944年6月20日)によると、豊和重工業への1004人の動員生徒のうち604人が「名高理工」(名古屋高等理工科学校)の生徒たちだった。
 東松氏は公開されているWebサイトインタビュー記事で、体育の時間には配属軍人による軍事教練があり、銃を持って地面を擦るようにして匍匐(ほふく)前進の訓練をさせられたことなどの学校生活の思い出を語っている。さらに、大隅鉄工所に通い、旋盤工見習いをしたこと、本来5年生まで学び、1947年卒業予定だったのが4年生で繰り上げとなり、1946年に卒業したことを振り返っている。
 東松氏と同じ1942年入学した木村信夫氏は5年生まで学び卒業は1947年3月だった。中等学校の5年間の修業年限は戦争非常時ということで1945年3月から4年間に短縮された。しかし、終戦によりGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)のもとで、新学制への改革の動きが始まる中、1946年3月、中等学校修業年限延長の措置がとられた。卒業目前だった東松氏、木村氏らは4年で卒業(1946年3月卒業)するか、5年で卒業(1947年3月卒業)するかはそれぞれの希望に任されました。
 「60年の歩み」に収められている座談会「わが母校を語る」で木村氏は、「教室で卒業式をしてそのまま校長先生のお宅におじゃましました。4年の繰り上げ卒業を含めても全部で50人くらいという小人数。校長先生宅の二階に上げていただいて、奥さんのピアノ演奏で『蛍の光』を聞かせて貰った覚えがあります」と語っている。校長先生は創設者でもある田中壽一氏。お祝いに出された食事について木村氏は「芋ではなかったか」と語っている。

卒業から60年後のメッセージ

  • 「名城体操」が繰り広げられたナゴヤドームでの80周年記念祭
    「名城体操」が繰り広げられたナゴヤドームでの80周年記念祭

 附属高校同窓会長だった新谷啓治氏は東松より2年遅れの1944年に中等科に入学した。新谷氏も亀島国民学校(尋常小学校から移行)出身で、東松氏とは小学校、電気科とも同じだった。
 2006年7月、ナゴヤドーム(現在はバンテリンドームに改称)で開催された附属高校80周年記念の生徒行事で、人工芝グラウンドでは附属高校名物「名城体操」が繰り広げられた。後輩に当たる生徒たちに東松氏は大型画面を通してメッセージを送った。メッセージは岡教頭が長崎に、大学(愛知大学)の先輩にもあたる東松氏を訪ね依頼した。
 岡教頭は「メッセージは短いものであったが、母校への懐かしさと平和の中で学ぶことができることのすばらしさが込められた内容だったと思う」と語る。軍事教練、勤労動員に明け暮れ、十分に学ぶことも、東松氏が繰り上げ卒業したのは60年前。学校生活を楽しむ余裕もなかった時代。東松氏が見たら、平和な時代に繰り広げられる後輩たちの「名城体操」は眩しすぎる光景だったのかも知れない。

「母校は人生のふる里」

  • 一柳鎨(はじめ)氏
    一柳鎨(はじめ)氏

 岡教頭の「本校の歴史を紐解く」の授業は、校舎や部活動の変遷が中心だったが、その時代を駆け抜けた卒業生たちの名前を思い浮かべながらの授業だった。戦後の学制改革で旧制名古屋高等理工科学校中等科は1948年度、新制「名古屋文理高等学校」の校名で再出発し、1951年度から現校名の「名城大学附属高校」と改めた。設置学科は普通、商業、電気、機械の4学科だった。
 名城大学附属高校となった1951年入学組には、後に名城大学の理事、校友会長も務めた一柳(はじめ)氏もいる。一柳氏は附属高校から名城大学第一法商学部商学科に進み、1958年に卒業。家業である一柳葬具總本店の4代目社長に就任した。2014年夏発行の「名城大学通信」48号で一柳氏は、「母校は人生のふる里だ」と語っている。
 「私は附属高校の出身でもあるし、高大一貫教育を受けました。大学が紛争の時代には法商学部学生会長だけでなく全学生会協議会長もしましたから、母校への思いはとりわけ強いのかも知れません。社会人となって考えるに、母校は人生のふる里です。ですから、ふる里の成長は卒業生の誇りでもあるのです。若い人たちのバイタリティーで、ぜひ名城大学の新しい伝統と、名城精神を築いてほしいと思います」(抜粋)

駆け抜けたF1ドライバー

  • 中嶋悟氏(有限会社中嶋企画提供)
    中嶋悟氏(有限会社中嶋企画提供)

 附属高等学校からはF1ドライバーも生まれた。1969年から機械科に在籍をした中嶋悟氏だ。岡崎市の農家に生まれた中嶋氏は、自著『いつかはF1 私の履歴書』(2022年、株式会社日経BP?日本経済新聞出版)で高校時代を振り返っている。
 「高校は名古屋市の名城大附属に進学した。自宅と最寄りの岡崎駅間をスーパーカブで駆(か)った。放課後は一目散で家に帰り、近くのモトクロスのコースで泥だらけになりながら、バイクを転がした。この程度で運転欲は満たされない。目をつけたのがゴーカートだった。公道を走らないから、バイクより安全だと親を説得。横浜で講習を受けて資格を取り、ガソリンスタンドでバイトをして貯めた10万円で中古の100cのカートを買い、高校2年の夏、初めてレースに出た」
 中嶋氏の高校生活を知っている教師たちは少ない。中嶋氏にとって高校時代は、スピードを競う世界へ羽ばたく一瞬の通過点に過ぎなかったのかも知れない。中嶋氏は卒業翌年の1973年に四輪免許取得とともにレース活動を開始。1981、82、84、85、86年全日本F2選手権でシリーズチャンピオン。1987年に日本人初のF1フルタイムドライバーとしてチーム?ロータスからF1デビューした。1991 年に現役を引退した。
 母校100周年を前に、中嶋氏からは後輩である生徒たちに向けて「未来に向けて頑張ってください」とメッセージが寄せられた。

羽ばたく卒業生たち

 岡教頭の附属高等学校での高校時代は、1982年度から1984年度。2年生だった1983年度の附属高等学校受験生は6862人、進学した愛知大学3年生時代の1987年度には8961人に及び、愛知県下最大のマンモス入試が定着した。1999年度入学者からは普通科と総合学科の2学科制に移行するとともに順次男女共学化された。2006年度には文部科学省スーパーサイエンスハイスクール(SSH)、2014年度にはスーパーグローバルハイスクール (SGH)の採択校となった。 

 岡教頭にとって中嶋悟氏は13学年上だが、附属高等学校からは中嶋氏に続けて、元気な卒業生たちが次々に羽ばたいた。1973年卒の竹内英二氏は名古屋市港区の洗車機メーカ「タケウチビューテー」社長。堀川沿いで事業を営み、日頃大量の水を使っていることもあり、2023年2月から名古屋城お堀の水質浄化プロジェクトに取り組む。
 竹内氏の2年後輩で1975年卒の卒業生からは落語家も誕生している。桂竹丸氏(本名 徳永良治)だ。駒沢大学を経て落語界入りし、1981年四代目桂米丸に入門し1993年に真打に。NHK新人演芸大賞入賞などで人気を高め「笑点」にも出演した。岡教頭らを窓口に、母校にも何度も訪れて後輩たちに落語の世界を紹介している。
 岡教頭は「この後の卒業生を見渡しても元気な卒業生はたくさんいる」と語る。ラッパ―で紅白にも出場したシンガーソングライターSEAMO(シーモ)(本名高田尚輝、1994年卒)、名城大学に進んだ後、キックボクシングで世界一になった佐藤嘉洋氏(1999年卒)、「パンのトラ」を売り出し、2014年に「世界で最も売れた食パン」としてギネス記録を達成した株式会社トラムスコープ社長の加藤敦揮氏(1999年卒)らだ。

新聞活用教育NIEに取り組む

 附属高等学校では2004年度から、総合学科の特徴あるカリキュラムづくりの一環として、「NIE学習」がスタートした。NIEはNewspaper in Educationの略で、新聞を教材に活用した教育の実践。1998年からは日本新聞教育文化財団によって一定期間の新聞購読料が補助されるNIE実践校の指定が始まり、附属高校は2005年度、2006年度、2021年、2022年に実践校の指定を受けた。
 社会科が担当の岡教頭もNIE学習にはスタート時から関わった。父親が印刷関係の会社を経営していたこともあり、子供のころからいろんな新聞や雑誌が身近にあり、いつでも読める環境で育ったこともあり、NIEには魅力を感じた。
 当時は2年生総合学科の2クラスが中国への修学旅行を実施していたが、新聞を使った調べ学習での最初の実践となった。生徒たちは関心を持った中国に関する新聞記事を集め、さらにインターネットや書籍でも情報を集め、中国と日本の文化の共通点や違いなどの調べ、掘り下げていった。修学旅行から帰った後は、中国で見たこと、感じたことを記事化し、写真を付けて新聞の形にまとめ、プレゼンテーションした。
 中日新聞に連載されているインタビュー記事「この人」を教材に、1、2年生が各教室でペアとなってそれぞれの相手を紹介する附属高版「この人」の作成、推薦入試で入学が決まった3年生たちが大学で学ぶ領域や内容についての新聞記事を集める「新聞切り抜き作品」作成、毎週、調べた内容、感想を書き込んでいく「新聞ノート」の作成。
 教頭になって、直接の指導現場からは離れたが、NIE学習は取り組む教員たちの創意工夫により、様々な形で進化を続け、探究学習のコンテンツの一つとし定着している。

自校史調べと「ナイルの水の一滴」

 NIE学習に関わりながら岡教頭が調べ始めたのが自校史だった。名城大学Webサイトに連載されていた「名城大学物語」も目にとまり、附属高等学校卒業生で、同窓会役員でもあることから、自校史調べに使命感を感じたという。
 岡教頭は航空写真を解析しての校舎の変遷、発行された生徒会誌や新聞、年ごとの卒業アルバムなどの目を通しての出来事の発掘、部活動の変遷を調べている。名城大学で「100年史」編纂作業が進められており、「附属高校編」として収められることになっている。岡教頭は「しっかり記録として残せるようにしたい」と語る。
 自校史を調べながら岡教頭の脳裏に浮かぶのは、部活動に汗を流した卒業生、部活動には関わらなくても様々な形で高校生活に青春を燃やした全ての卒業生たちだ。
 岡教頭は、「本校の歴史を紐解く」の授業に使ったパワーポイントの最後を、志賀直哉の一文「ナイルの水の一滴」で締めくくった。
 「人間が出来て、何千何万になるか知らないが、その間に、数え切れない人間が生まれ、生き、死んで行った。私もその一人として生まれ、今生きているのだが、例えて言えば、悠々流れるナイルの水の一滴のようなもので、その一滴は後にも前にもこの私だけで、何万年遡っても私はいず、何万年経っても再び生まれてはこないのだ」